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アメリカの”中絶裁判”(2):ニュートラルな立場から見た”中絶規制問題”

この問題について語る私の立場=やや保守寄りのニュートラル

この問題について語るにあたり、プロ・ライフ(中絶規制賛成)派なのか、プロ・チョイス(中絶規制反対)派なのかは重要になってくるかと思います。私は保守的な考え方ですが、中絶問題ーー特に中絶規制の是非をめぐる裁判についてーーは、ニュートラルな立場にいます。ただし、社会のあり方に対しては、モラルや秩序の中での自由が重要と考えていますので、ニュートラルな立場とはいえ、やや保守寄りの考え方だといえます。

双方のどちらの立場に立てない理由は下記の通りです。

  • レイプ被害による妊娠は、中絶についての個別な判断が必要ではないか?

  • 中絶を許可するケースに、近親相姦をいれている理由が不明

  • 女性の権利と、男性の義務をセットで議論すべきでは?

  • ”中絶は女性の権利”とする表現への違和感(中絶のリスクについても考慮した表現するべき)

レイプ被害者の救済としての中絶の必要性と、被害を判断する難しさ

レイプ被害であることの証明をどうするか?

数年前までは、レイプ被害による妊娠は、例えば、刑事裁判記録等を元に、中絶を認めていいのでは?と考えていました。ところが、ここ何年間に行われてきた、アメリカの裁判を見てきて、訴訟はより公平な判断を下すところではなく、弁護士の腕と世論操作次第で、如何様にもなるものだなという気がしています。そうすると、中絶を行いたいがために、レイプをでっち上げられるような、冤罪被害が起きる懸念もあります。

そこでぼんやり考えてみたのが、『レイプ被害者であれば、一律、中絶可能』とするのではなく、『レイプ被害者のサポートの一貫としての中絶ならば可能』等の措置です。レイプ被害者であれば中絶以外のサポートは必要であり、様々な支援団体もあります。アメリカは日本よりも性的被害者の支援が充実しているのではないかと思うのが、例えば、警察が誘拐された子どもの救出作戦を行う際に、救出された子どものケアをする団体と必ず連携しているようです。それは性的被害を受けている(た)状況(危険)から被害者を救い出す重要性と同様に、その後のケアが不可欠であることが広く理解されているからだと思います。このような中絶以外のサポートを受けていることが、変な言い方ですが、被害者である証明になります。こうすることで、冤罪を防ぐことができます。

冤罪被害の懸念

どうして冤罪のことを気にするのか?といえば、アメリカでの性的犯罪者への社会制裁が日本よりもかなり厳しいものになっているからです。一度でもこの罪を犯した人は、性的犯罪者としてネットで簡単に検索できるようになります。性的犯罪者への厳しい制裁は、この犯罪の卑劣さを考えると当然ともいえますし、再犯性のあることからも、このような措置は必要なものといえます。
しかし、それがもし冤罪だとしたら、日本でも痴漢の冤罪で人生を狂わせられた人の話がありますが、元々の社会的制裁が大きいだけに、冤罪だったときの取り返しが一層つかないことになるのではないでしょうか。

では、冤罪なんて起こり得るの?という話ですが、つい最近、話題になっていたジョニー・デップと、元妻アンバー・ハザードの裁判がありました。こちらはレイプではなくDVでしたが、アンバー側がジョニーからDVを受けた証拠として挙げられた数々のケースがでっち上げであると、ジョニー側の弁護士だけではなく、ネット民たちが指摘。裁判期間中は、毎日のように「殴られた跡を作るメイク法」みたいな動画がどんどんアップされていました。
(*念のため、明らかになったのは、”DV証拠がでっち上げである”ということです。ただ、DV自体が事実であれば、なぜ証拠をでっち上げたのか?という点が気になりますので・・・)

これだけ注目された裁判ですし、ジョニー・デップに優秀な弁護士を雇うだけの財力があったことで、DV証拠の捏造という主張を通すことができたものの、一般小市民が雇えるレベルの弁護士が助けられるかどうかはわかりません。

中絶規制の是非を議論する前に、考慮する問題

上記にあげた、双方のどちらの立場に立てない理由の残りの3つは、中絶の可否を議論する前に、中絶が必要となった理由について、議論するべきではないかという考えから来ています。

妊娠は誰の責任か?

ここで少し本題からは外れますが、中絶の可否をめぐる議論を展開する前に、シェアさせていただきたいのが、香港のドメスティックヘルパー(東南アジア等出身の住み込み家政婦さん)が妊娠した際の雇い主の対応をめぐって友人と行った議論についてです。20年前の話ですので、制度自体は変わっているかもしれません。

前提として、当時の香港では、共働きの家庭(会社員、標準給料)であれば、ドメスティックヘルパーを雇うことが一般的でした。掃除や洗濯、炊事から、子どもや高齢者のお世話まで、広く”家事”とされることを担ってくれます。ドメスティックヘルパーの雇用条件は、フィリピンやインドネシア等の派遣国と香港政府の間で話し合われ、その規定に準じた個別契約となります。主な雇用条件の1つに”妊娠は解雇理由になる”というものも。複数社員がいて、フォローができる企業とは異なり、雇用主がごく普通の家庭であるため、出産・育児休暇を提供することが困難だからです。ただし、妊娠したドメスティックヘルパーが帰国する際のチケット代は、雇用主負担となります(記憶が正しければ)。

20年前に、友人のドメスティックヘルパーの友人(ドメスティックヘルパー)が妊娠して解雇通知を受けたことがありました。それに対して、アメリカ生まれでかなりリベラルだった友人は激怒し、雇用主に怒鳴り込みに行きました。ドメスティックヘルパーは敬遠なクリスチャンであり、中絶する選択肢はないため、そうすると、解雇を受け入れるしかなかったからです。

「妊婦を追い出すなんて、人間としておかしい。あなたもそう思うでしょ?」

友人の発言はこれだけ聞くと、否定のしようもないものです。しかし、今回のケースでは、雇用主が妊婦に対して、差別的な対応をしたわけではなく、雇用契約に従い、それを履行したに過ぎません。
それに妊娠した彼女を雇い続けるためには、彼女に妊娠前と同じような家事を続けてもらわない限り、雇用主の家事が回らなくなります。雇用主は、ドメスティックヘルパーに自宅の1室を個人の部屋として提供する必要がありますので、家賃が高額で家の小さい香港で、同時にもう1人雇用ということは、よほどのお金持ち以外無理です。さらに、産前産後には、ドメスティックヘルパー自身もサポートが必要になりますが、これは雇用主がサポートを提供するべきなのでしょうか?

繰り返しになりますが、香港では標準的な共働き家庭ならば、ドメスティックヘルパーが雇えます。それは払える賃金、雇用できる条件があって実現できるものです。では不当な程の低賃金かといえば、そうではないように思います。というのも、香港でドメスティックヘルパーとして働く賃金で、祖国の家族(5〜10人規模)をも養うことができるからです。
祖国では医師免許を持っているものの、香港に出稼ぎに来ているという人の話も聞いたことがあります。医師免許ありということで、ドメスティックヘルパーとしての賃金が高くなるメリットがあるとのことでした。この辺はまた別の議論が必要になるかと思いますので、ここでは、あくまで当時の香港はそのような状況だったということに留めさせていただきます。

雇用主に産前産後休暇や育休を求めてしまうと、ドメスティックヘルパーを雇える層というのは、かなり限定されてきます。そうすると、ドメスティックヘルパーとしての職を希望する人は多い中、失業する(仕事が見つからない)ドメスティックヘルパーが増えてしまうでしょう。これはあくまで私の推測ですが、妊娠を解雇理由として認められたのには、雇用(国)側、派遣(国)側、双方にメリットがあったからではないかと思います。

それよりも・・・。

「ところで、その赤ちゃんのお父さんは何してるの?」

赤ちゃんには必ず生物学的父親が存在するはずです。その生物学的父親が解雇された彼女と結婚するなり、経済支援すれば、例えば、出産子育てに必要な期間は失職するかもしれませんが、その期間の生活の心配はありませんし、結婚によりビザステイタスが変われば、ドメスティックヘルパー以外の仕事もできるようになります。
この質問に対して、友人からは、はっきりとした答えがもらえなかったため、おそらく生物学的父親が逃げたか、誰だかわからないか、どちらかの状態だったのだと思います。

そうであるならば、雇用主を責める前に、彼女の妊娠について一切の責任を取らなかった、生物学的父親を責めるべきではないでしょうか。

私は元ドメスティックヘルパーだったフィリピン人の友達がいましたが、彼女の場合も、妊娠がわかったと同時に、結婚が決まったので、解雇となって困らなかったどころか、フィリピンの実家に残してきた前夫との間の子どもとも、養子縁組をし、家族になったとのことでした。香港に出稼ぎに来ていた彼女に代わり、フィリピンに残った彼女の家族への仕送りも、夫がしてくれるようになりました。
友人のケースは、”サクセスストーリー”なのかもしれませんが、少なくとも彼女の周辺には同じような境遇の同郷の友人が2、3人いました。さらにもっと突き詰めると、サクセスストーリーかどうかというよりも、お相手が誠実な人だったかどうか?という点が重要かと思います。

ここで日本人的(もしくは西洋人的)な発想だと、「だから、避妊が重要」という話になります。しかし、敬虔なクリスチャンの中には、中絶を禁止するよりも前に、避妊もNGという人(グループ)も。先程の友人も「中絶も、避妊もできないから彼女に落ち度はない!」と、彼女の”解雇されずに出産する権利”を主張していました。

私はここにも疑問を感じます。彼女が意思決定する際に、自身の職業:ドメスティックヘルパー、そして、宗教:クリスチャンという制約があるならば、”男女交際のあり方”自体をもっと慎重に行うべきではなかったのでしょうか。これは何もドメスティックヘルパーやクリスチャンに限ったことではなく、他の職業、宗教の人でも起こり得ることで、「今は仕事に集中しなくてはいけない時期」「家が厳しいからデキ婚は無理」等々の事情があれば、妊娠を避けるような行動を取るかと思います。

妊娠する権利、出産する権利、それ自体は誰からも奪われるものではないかと思います。しかし、現代社会の中で生きている限り、子どもを持つということには責任が生じますし、約束したことを守らなければ、それに応じた対応を受けてしまうことは大人として理解するべきことだと思います。

生物学的父親&母親の責任という視点の欠如

本題に戻ります。
中絶を認めないこと(件のドメスティックヘルパーの件では、妊娠が解雇条件になること)は、女性の権利を奪うというのがプロ・チョイス派の主張ですが、妊娠はある日突然、思いがけなくなるものではありません。生物学的父親と、生物学的母親がいて、そして、行為があり、妊娠するものです。互いの合意なく、行為があった場合、いわゆるレイプであるならば、産む・産まないという女性の選択肢を狭めるのは、確かに女性の権利を奪うものになると思います。

しかし、その行為が合意の上であったのならば、その結果起こったことの責任は、本人たちにあります。妊娠は女性にのみ起こることですので、行為の結果が女性により重くなるのは事実です。しかし、ここで「女性の権利」を主張するよりも前に、「男性の責任」について問うべきではないでしょうか。男性は妊娠できないことから、取れる責任の形としては主に金銭的なことになるかとは思います。「父親が誰だかわからない」という状況以外であれば、DNA検査等により、生物学的父親に責任を取らせる方法はあるかと思います。

とはいえ、最初に述べたように、中絶に反対という立場ではありませんし、賛成という立場でもありません。ただ、展開されている”中絶を女性の権利”とする主張は、なんだかなと思うわけです。

そもそも”中絶は女性の権利”理論では、望まない妊娠が女性に与える負担に注目してはいますが、中絶が女性に与える負担については考慮していません。過去の中絶が不妊の原因になることもあると聞いたことがあります。”中絶の権利が出産の機会を奪うリスクにつながることもある”という点を考慮せずに、この議論はできないと思います。

”中絶は女性の権利”を主張するフェミニストに尋ねたいのは、「中絶や妊娠に対する男性の責任について、なぜもっと強く追及しないのか?」ということ
妊娠を継続するにしても、中絶するにしても、生物学的父親の責任という形で経済的なサポートが得られるならば、それは女性の選択に影響する可能性があります。

「中絶を禁止すれば、自殺者が増える」ような主張をする人もいましたが、本来であるならば、祝福されるべき”妊娠”という出来事にもかかわらず、自殺を選ぶような人が出てくるのは何故なのでしょうか。この点にフォーカスし、その問題の方を解決するべきではないでしょうか。このようなアプローチを行うことなく、”中絶は女性の権利”を繰り返し主張することは、「妊娠は祝福されるべき出来事ではない」というメッセージにも聞こえてしまいます。この点はとても残念です。

また、中絶を認められているケースに近親相姦が入っていた件には、嫌悪感があります。「近親相姦だから出産(生まれた子ども)にはリスクが伴う」という点は理解していますが、そもそも・・・このケースは・・・。
思春期の女の子が父親を避けるというのは、近親相姦を避けるための自然の摂理という話を聞いたことがあります。どんなことにも、超えてはいけないラインというものがあります。近親相姦のために中絶がケースについては、中絶が必要になる行為そのものを排除するべきだと思います。

このようなことを考えると、中絶を女性の権利とすることで、中絶可能とする範囲を広げることは、社会秩序を壊しかねないリスクが伴うのではないかという気がします。近親相姦による妊娠でも中絶は認められないとなれば、近親相姦自体の抑制効果があるのではないでしょうか。

スローガン”My body, My Choice”の謎

”中絶は女性の権利”を主張する人の中で、使われるスローガンに”My Body, My Choice”というものがあります。私の身体なのだから、私に選択権があるというものです。実はこのスローガン、コロナ規制反対の時にも使われていたスローガンでもあります。

Googleイメージ検索画面

規制反対という点では、コロナ規制も中絶規制反対も同じなのだから、同じスローガンを掲げて問題ないのでは?とも思う方もいらっしゃるかと思います。

しかし、活動家の層を考えると、コロナ規制時に”My Body, My Choice”を掲げていたのは、保守派であり、中絶規制で”My Body, My Choice”と主張しているのは、リベラル派。つまり・・・。

  • コロナ規制時に”My Body, My Choice”を唱えていた人が、現在の”My Body, My Choice”は反対する立場に。

  • コロナ規制時の”My Body, My Choice”反対を唱えた人が、現在の”My Body, My Choice”を唱える立場に。

どっちやねん!

ただし、中絶規制のスローガンとして”My Body, My Choice”を使う際、胎児をMy Bodyの一部と捉えていることには少し違和感があります。私はつわりが酷かったこともあり、”つわりはなぜ起こるのか?”についていろいろ調べてみたことがあったのですが、その時に”母体が胎児を異物と判断してしまうことがある”という説がありました。排除しようという母体と留まろうとする胎児とで・・・云々(遠い記憶なので中途半端ですみません)。

この説が医学的にどうかということをはっきりとは覚えていないのですが、個人的には「体内に別の人物が育っているわけだから、互いに調子を合わせることができるまで仕方ないか」と、妙な納得ができた説でした。それもあり、胎児と母親は、1つの身体を共有している親子の仲だとはいえ、別人格という思いがあり、胎児が母親の体の一部というのには少し抵抗があります。

とはいえ、胎児と母親が別人格であることを理由に、中絶を全面的に禁止すべきとは思っていません。単純に、このスローガンで説明していることに対して、違和感があるというだけです。

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今回は、個人的に中絶規制問題について考えていることをシェアさせていただきました。
1973年判決を覆した最高裁判決は、実は中絶問題だけにとどまらず、崩壊しつつあるアメリカの民主主義が復活する兆しになるものではないかと思わせてくれるものでもありました。次回は、この点をシェアさせていただきます。

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