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ボツにした新連載・第1話シリーズ①

漫画家かっぴーが、漫画の新連載を考える上でボツにした設定・キャラを供養するために、とりあえずテキストの状態で垂れ流すシリーズです。いつか別の形で作品になる可能性もあります。

喉に心地よい刺激が流れ込む。胸の奥が僅かに冷えたお陰で、さっきよりは大分気分が良くなった気がした。ファンタを自販機で買って飲むなんて何年振りだろう。先輩の真似をして、いつの間にか喫煙所の自販機ではブラックコーヒーを買うのがお決まりになっていた。はっきり言って自販機のコーヒーはコーヒーに似た別の何かだ。それ自体を否定するつもりは無いけれど、あれを本気で美味いと思って飲む大人が存在するのだろうか。如何ともし難いのは口当たり。飲み物はほとんど唇を使って飲んでいると、思う。缶コーヒーの限界は、缶であるという事に尽きる。缶に詰められた時点でコーヒーは負けだ。その点、炭酸飲料は良い。ペットボトルより断然、缶だ。最近の自販機はキンキンに冷えていないのが玉に瑕ではあるが。

右手にまとわりついた水滴を半ズボンで拭うと、そのままポケットにあるスマホを掴んだ。0が三つ並んでいる。「ゾロ目。」という呟きは繁華街の雑踏に流されていった。さっき時計を見てから5分も経っていない。朝までが途方もなく長く感じる。異変は日曜にはじまった。土曜に飲み過ぎたせいかとも思ったが、日曜の昼過ぎになっても体が重い。なんとか起き上がり、毛先が広がりきった歯ブラシに歯磨き粉を擦りつける。金曜の夜に食ったカップラーメンの器が流しに転がっていて、見ないように台所に背を向けた。

「月曜。燃えるゴミ。」

ぼくは、自分に聞かせるためだけに、冷蔵庫に貼ってあるメモを読み上げた。


月曜日


「いや普通に病院行きなよ」

なぜか怒ったような口調で言い放たれたので、思わず真里奈の顔に目線を向けた。ここで「どうして怒るの」とか突っかかろうものなら言い合いになるのは目に見えている。そうなると機嫌が戻るまで小一時間はかかるのだ。彼女とはもう学生時代からの長い付き合いになる。この夏で交際5周年を迎えるのだから、無駄な争いを回避する方法は心得ているつもりだ。絶対に、このトーンの真里奈に口答えしてはいけない。

「ごめんごめん!大丈夫だって、食欲とか普通にあるし。むしろ食欲、ある。なんか食ってもすぐ腹減るんだよなぁ。野球部かよってくらい。野球部って、すげぇ食うよね。柔道部くらい食う。」

安居酒屋の悪くない唐揚げを、茶碗の白米(中)に乗せながらまくしたて、わざとらしくいつもの3割増の速度で口に放り込んで見せると、やっと真里奈の呆れ顔を直視する事ができた。

「身体が怠くて、頭がボーッとするんでしょ?いくら食欲あっても怖いって。ほら、私の叔父さんが脳卒中で亡くなったって言ったでしょ?働き盛りの40代よ。昨日まで元気に働いてたのに、急に。最後に観てたのがレッドカーペットよ。発泡酒飲みながらゲラゲラ笑ってたのに、朝になったら亡くなってたの。嫌でしょ、そんなの。最後に観たのがレッドカーペットなんて。発泡酒なんて。絶対病院に行ったほうがいい。明日午前中に行けないの?」

具体的な病名を出されて、たじろいてしまった。ぼくは具体的な病名が苦手だ。具体的な病名恐怖症と言ってもいい。物分かりのいいフリをして「確かに」とだけ返した。しかし明日は朝から打ち合わせが入っている。午後も出先だから病院に行く暇も無いだろう。いや、行こうと思えば行けるのだろうけど、まず気が進まなかった。とりあえず今日の所は、もう一杯だけ飲んだらとっとと帰ろう。ぐっすり眠りにつけば大抵良くなるものだ。店員に目配せをしながら、ぼくは右手を上げた。

「あっ!」

真里奈の声に反応し、彼女の顔を見る。視線を辿ると、お冷やのグラスがテーブルから飛び出そうとしていた。手を上げた時に肘が当たったらしい。騒がしい安居酒屋でも盛大にグラスを割った時に限って視線が集中するものだ。あれはなかなか気まずいものがある。ぼくは咄嗟に空いている左手を右手の脇に滑り込ませて、グラスをキャッチした。図らずともスペシュウム光線を撃つポーズになって、グラスから溢れた水が右手の親指を濡らした。

「おお、セーフ。」と言ってぼくが笑うと「ナイスキャッチ。野球部みたいね。」と真里奈も合わせた。

火曜日

酷く喉が渇く。喉の皮が張り付く様な渇きだ。夏のせいでは無い。この時期にしては今夜は涼しかった。電気をつけなくても明るいのが、このアパート唯一の長所かも知れない。もちろん優美な月明かりなどでは無く、繁華街のネオンがカーテン越しに部屋を薄ら照らしていた。ぼくが終電間際に帰宅すると、よくお兄さんお姉さん方が出勤の時間で入れ違いになるものだった。台所に逆さまにしてあるコップを手に取って、汚れが残っていないか確認すると勢いよく水を注いだ。グラス一杯の水を飲み干すと、頭のてっぺんが締め付けられる様な感覚が襲ってきた。視界が狭まる。繁華街のネオンが、いつもよりどぎつく眼球を刺激する。

「うおー、何これ…。」

ぼくは初めて煙草を吸った時の事を思い出した。煙が肺に入るや否や、初体験の快楽が不快感とタッグを組んでやって来る。気持ち良さを感じる前に、吐き気が来る。そんな感じ。そう、この異変には何かしらの快楽も含まれているのだ。意識がぼうっとしているのに感覚だけはハッキリしている、相容れない快楽と不快感が同時に広がる。喉の渇きは、まだおさまらない。冷蔵庫に宅飲みで余った発泡酒がある事を思い出したが、今アルコールを摂取するのは愚策な予感がする。ぼくは靴箱の上に乱雑に積み上げた小銭の山から何枚か掴むと、サンダルに足を突っ込んだ。

「ゾロ目。」

水曜日

「7月24日0時0分。運が良いのか悪いのか。」

ぼくが振り返ると、いつの間にか制服姿の女子高生が立っていた。ぼくと同じくスマホの画面で時間を見ていた。新宿の繁華街に、女子高生。この辺に住んで何年か経つか、案外あまり見かけない光景だった。このご時世とは言え、非行少女とか悪いバイトをしている女子高生は居るには居るのだろうが、いかんせん制服を着ていなければぼくには見分けがつかない。制服を脱いで化粧を纏ってしまえば、女子高生という記号は簡単に隠す事ができるのだ。その点で彼女はあからさまに、これ見よがしに女子高生だった。しかし、非行や援交とは無縁そうな清楚系。短い艶のある黒髪から色白の細い首が伸びている。セーラー服の着こなしも控えめで、一見地味だが、同窓会で再会した時には当時アタックしなかった事を後悔する美人に成長してそうなポテンシャルを秘めた顔立ちに見えた。いやしかし、そういう子に限ってという話は聞いた事がある。非行だろうが援交だろうが、いずれにせよ視線を向けてしまった事を後悔しつつ、飲み干した空き缶をゴミ箱に落とした。

「形式上お伺いしますが、あなたは教会員ですか?」

ぼくは恐る恐る振り返った。悪い予感の通り、その女子高生はしっかりとぼくの方を向いて喋っている。コントのように、一応ぼくの後ろに誰か居ないか確認してから、これまたコントのように「オレ…?」と自分を指差し聞き返した。そして、間髪入れずに続ける。

「あ…たぶん人違いです。」

その女子高生は、気怠そうに「ふぅ」と息を漏らした。

「霧島祐介さん、ですね。あなたは教会員ですか?」

ぞっとした。夜中に繁華街で女子高生に話しかけられるだけでも奇妙なのに、彼女はハッキリとぼくの名前を発したのだ。頭をフル回転させて、同僚の娘さんとか色々な可能性を考えてみたものの、それでもこんな場所で話しかけてくる事自体がおかしい。

「誰?」

「要領を得ませんね。教会の方ですかとお伺いしてるのですが。違いますか?」

「キョウカイ?協会って?心当たりが無いです。てか、誰ですか?」

次の瞬間、さっきまで周囲を照らしていたネオンが音もなく消えた。ぼくは思わず通り沿いの雑居ビルを見上げた。道の先では、まだネオンの明かりが見える。いつの間にか雑踏も遠くに聞こえるだけになっていた。いやに静かだ。これは停電では無い。ぼくがいる周辺だけ、ネオンと人気が消えたのだ。もちろん暗闇という訳では無いが数メートル前に立っている女子高生の表情は見えなくなった。表情は見えないものの、この状況を驚かないのだからネオンが消える事を知っていたのだろう。新宿、繁華街、女子高生、具体的な因果関係は全くもって分からないが、何らかの犯罪に巻き込まれているのかも知れない。ぼくはさっきからずっと手に握りっぱなしだったスマホの事を、やっと思い出した。警察、いやまずは近所の友人に。

「何だこれ!?」

スマホの画面が、見た事も無い表示に変わっている。「現在使用できません」と書いてある。甥っ子が勝手にいじくり回してパスワードを何度も間違えた時の画面に似ていたが、あれとは異なる。もっと簡素に「現在使用できません」とだけ書いてあるのだ。「何分後に」とか、そういった表記すら無く、ただその一行だけ。

「結構面倒だったんですよ。この辺は高いので。この四練の雑居ビルだけで、一晩250万円ほど売上があるそうです。休業要請も渋られてしまいました。倍額を補填するという条件で何とか。あ、スマホを使えなくするのは案外簡単なんですよ。」

「ドッキリか!最近テレビでやってるやつ?それともユーチューバーなんですか、お姉さん。いや凝ってるな!て言うか、怖いです。もういいので。もういいでしょ?何なんだよ、これ!?」

「具合はいかがですか?」

ぼくは背筋が凍った。この数日の異変と、この女子高生が関係してる?そんな事ってある?もしかして薬物でも飲まされたとか?気がつかない間に、この新宿のヤバイ何かの組織的な存在の実験モルモットにされてて、効果を観察されてたとか。あれか、治験みたいなやつか。非合法の治験を、無断でやらされてる的な展開か。脳裏に最悪の可能性が無限に広がる。自分がこんなに想像力が豊かだったとは知らなかった。

「ハ…ハッキリ言います、相当怖いです!どうしてオレの名前を知ってるんですか?体調は悪いですよ、ほら足が震えてる!あの、マジで誰か教えてくれます?そしたら少しは安心できると思うので!」

声が震えている事に自分でも驚いた。とにかく走って立ち去る事も考えたが、彼女はぼくの名前を知っていた。アパートもここから5分程の場所にあるのだ。近所で声をかけられるという事は家を知られていると考えるのが妥当。何が妥当なのか全然分からないが、とにかくそう思った。

「私の名前は森アオと言います。変わっていますが本名です。もし呼ぶならアオと呼んでください。苗字は気に入っていないので。」

「アオさんね、アオさん。はい。それで?誰なんですか?」ぼくはまだ震えがおさまらなかった。

「この世界には奇跡と呼ばれる現象がありますが。」

「は?」

「ありますよね?それって実はー」

「いや、待って。ある事が前提になってるけど…?」

「そこからですか?いや、ここから何度も耳を疑う事実をお話しないといけないというのに、このペースで聞き返されていたら朝になってしまいますよ?」

何故かぼくの方が咎められた形になった。この女子高生は何を言っているんだ?さっきのキョウカイっていうのは、もしかして教会?

「宗教ですか!?だとしたら、相当まずい事してるからな?人の個人情報調べて勧誘して回ってんのか?まずいよ、それ。ニュースになっちゃうよ!?」

彼女がポケットから何かを取り出し、ぼく目掛けて投げつけた。一直線に眼前に迫る棒状のものは、よく見るとただのリップクリームだった。ぼくの鼻先に衝突すると、そのまま暗がりに転がっていった。

「って!何だよ!?」

「今のが何か見えましたか?」

「リップクリームだろ。」

「普通見えないですよ、野球選手くらい動体視力が無いと。こんな暗さだし。」

「いや、見えたよ、別に。」

「それが奇跡です。」

「舐めてんのか?」

「あなたに発現した奇跡は《ゾーン》と呼ばれるポピュラーな現象です。聞いた事はありませんか?交通事故の際に周囲がスローモーションに見えるという話。アスリートが集中した時にも起こる事があります。昴という漫画、読んだ事ありませんか?あなたの場合、それが癖になってる。」

「は…?は?」

「《ゾーン》が癖になってるんです。」

ぼくは、居酒屋で落ちかけのコップをキャッチした事を思い出した。あれが《ゾーン》なのか?もしそうだとして、どうしてそれをこの女子高生が知っている?

「そういった現象を一括りに奇跡と呼んで、政府機関が管理・運用しているのです。奇跡にはレベルがあって、あなたはレベルEです。レベルSを最上級に、ABCDEFと段階があります。レベルFは手続きさえすれば日常生活を送っていただけるのですが、面倒な事にレベルE以上になると管理・運用の対象となってしまうのです。ちなみにレベルEという漫画もありましたね。読みましたか?」

ぼくは頭がくらくらしていた。間違いない。この子は、いわゆる厨二病というやつだ。妄想癖の厨二病。そして、親が金持ちだかそういう理由でやばい事をやって許されてしまっているやばい厨二病。警察だ、警察に行くしか無い。とにかく、一旦は話に乗ったフリをして、隙を伺って吹っ飛ばして逃げよう。か細い女子高生を吹っ飛ばすのは本来気が乗らないし絶対にやるべき事では無いが、ぼくはすっかりこのアオという女子高生を敵と見做している。この子は、怖すぎる。

「なるほど〜、じゃあさ、ちょっとアオさん見せてよ、奇跡ってやつを。」

「残念ながら、私は有している奇跡はレベルBなんです。レベルB以上の奇跡は、使用するのに議会の承認が必要となります。自衛隊に発砲して見せてよと頼んでも、発砲できないのと同じです。つまりレベルB以上ともなると武力と見做され使用が制限されるのです。」

「それって勧誘としてはダメじゃね?信じさせるには見せるのが一番手っ取り早いのは明らかでしょう?て言うか、見ないと誰も信用しないって。だったら、その何?レベルABがそういう設定なんだとしたら、レベルCとかDの人が勧誘に来て、奇跡を披露して信じさせるってのが効率的なんじゃないスか?」

「確かに。」

「確かにじゃねぇよ!!」ぼくは思い切り踏み込んで、彼女に体当たりした。少しは罪悪感が芽生えるかとも思ったが、今のやりとりが決めてなり、ぼくは完全に頭に血が上っていた。自分が、自販機に頭を打つまでは。

「いってぇえええ…!」彼女に衝突した瞬間、ぼくは弾かれて自販機に突っ込んでいたのだ。

「あなたが悪いんですよ。私に突進するなんて。平常時でも乗用車くらいまでなら無傷で立っている事が出来るんです。私が有している奇跡は全身の筋肉を常人の数万倍硬くする現象です。」

「いや、よろけただけだっつーの!!」ぼくは立ち上がり、思い切り彼女の二の腕を掴んだ。しかし、彼女は微動だにしない。突き飛ばして踏ん張る程度なら、実はスポーツの国体選手でした的なオチでかろうじて納得できそうだったが、掴んだ二の腕を引いても押しても、全く1ミリも動かない。そして恐ろしく硬い。カッチカチだ。もちろん女子高生の腕を掴んだ経験なんて無いから分からないが、女性特有の柔らかさが微塵も無い。

「オレ…もしかして…頭おかしくなったのか?実は、ここに女子高生なんて存在してなくて…単にオレの頭が変に…?」

「あなたの《ゾーン》も、私の《硬化》も、脳が起こしている現象です。人間の脳は本来の性能の数%しか使っていない、的な話は聞いた事があるでしょう。どの奇跡も、科学で説明ができる範疇です。レベルA以上になると現代の科学では説明できない領域になるのですが、それでも現在説明が出来ないというだけであって、おそらく物理現象的にあり得るものだと考えられています。」

「て…てゆーか!!使ってるじゃねぇか!奇跡、使ってるじゃねぇか!今!何だよ、議会の承認って!?その設定どうしたんだよ!?」

「自衛は認められているんですよ。」

「じ…自衛…!?」

「さっき自衛隊で例えたでしょう。相手から攻撃を受けた時に限り、身を守る行動を取る事が許可されています。もちろん奇跡を使用せずに回避するのが理想的ではありますが。そのために莫大な予算を使う事が許されているので。いつもならSPがいるのですが、ちょっと事情があって。」

「百歩譲って…あくまで百歩譲っての話だけど、本当にそうだったとして…オレにどうして欲しいわけ?管理・運用ってなに?」

「本来であれば私と同じく政府機関に所属し、お国のために奇跡を使用する事になるのですが、あなたの場合はちょっとイレギュラーで。」

「さっきポピュラーって言ったじゃねぇか!設定めちゃくちゃだよ!!」

「奇跡そのものはポピュラーなんですが、あなたを対象に予知系所有者たちが予言を出したんです。」

「予知系?所有者?」

「《予知夢》もかなり多い奇跡ですね。《ゾーン》と同様に一般人でも条件が揃うと発現したりもするので。ほとんどの場合はデジャブだと思われてスルーされますが。今回、実に203名の予知系所有者たちが、似たような予言をしたのです。」

「それは…?オ…オレに関して?って事?」

「その通りです。たまに現れるのですよ、大きな厄災を引き起こす因果を持った所有者が。私たち機関の主な活動も、その予知された厄災を未然に回避する事です。2011年3月の震災も予知されていたのですが、規模が大き過ぎて因果の元凶まで辿り着く事が叶いませんでした。あの失態によって、私たち機関は予算を3分の2まで縮小される結果となりました。私たちは、この様に奇跡の反動で起こる厄災を《反奇跡》と呼んでいます。」

「いやいやいや、待てよ。オレが震災の原因になるって?どういう事?地震ってあれでしょ、地盤でしょ?プレートでしょ?人間関係ないよね?」

「元凶が必ずしも人間とは言ってませんよ。場所にも奇跡が発生するんです。どこかの場所で奇跡が起こり、その見返りでどこかで震災の様な厄災が反動として起きてしまう。これもまた物理現象ですよ。作用・反作用の関係で、避けられない事です。であるならば、滅多な事で奇跡を起こさせない方が良いし、奇跡を所有した人間を管理もせずに放置するなんて言語道断だと言う事です。」

「でも…だからさ、オレのはレベルEなんだっけ?低いんだろ?その反動で何か起きたって知れてるだろ!?」

「本来、そのはずなんですけどね…。もしかすると…。」彼女の、アオの眼差しがぼくに向けられた。まるで冷たい刃物を向けられた気持ちがする。

「あなたの奇跡は、変異するのかも。」

掌が汗で濡れている。何から何まで頭が追いついていないが、彼女が言っている話が見えてきた。要は、オレにこれ以上奇跡を使わせないのが目的なのだろう。と言っても、ぼくは無自覚におかしくなって、ふとした瞬間にその《ゾーン》を発現してしまう。コントロールは出来ないのだ。

「その…予言…というのは?」

「百発百中の《予知夢》の所有者を現在の日本は有していません。なので、203名の予知系所有者の統計をとるのです。それでかなりの確率で予知をする事ができます。まぁシンプルに、的中率が高い順に採用し、複数の所有者が予知した重複するキーワードがあれば確度高しと判断し適宜拾うという具合に、予知内容を精査するのです。あなたには知る義務があるので、それを開示します。恐らく無いでしょうが、もし何か心当たりがあれば教えて下さい。予知の内容は、以下の通りです。」

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<2018年7月20日土曜日・予知系統所有者203名対象調査より>

「2020」99%

「感染」97%

「距離」91%

「医療」55%

「アマビエ」24%

10%以下の関連キーワード

「マスク」「エタノール」「都知事」「五輪(オリンピック含む)」「新型」「コロナビール」「倒産」「空港」「崩壊」

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「予知系所有者には、それぞれ異なる射程があります。レベルが高い予知夢ほど、先の事が見えると言われているのですが、今回は203名全員がほとんど同時期にこの夢を見ました。つまり、この厄災は期間が長いという事です。おそらく、何らかのウイルスが流行するのでしょう。そして、それは長期化します。」

「だから…それ、オレに関係ある!?」ぼくは思わず大きな声を出した。こんなに声を荒げたのは新歓コンパの時ぶりかも知れない。

「あるんですよ、関係。予言と共にあなたのマイナンバーが。」

「マイナンバーってそう言うものじゃないだろ!!いい加減にしろ!」

「いや、そういうものなんです。あれは全国民に座標の様な数値を振り分けて、予言をしやすくするための政策なんです。あれを発案したのが私たちの機関。あれのお陰でだいぶ仕事がしやすくなりました。」

「そっ…そんなの…!」ぼくは動悸が苦しくなってきた。また頭がぼうっとする。これが例の現象なのだろうか。どこか心地の良い快楽と共にやってくる不快感、吐き気。

「先ほど言った通り、私からあなたを拘束する事はできません。もし宜しければ、大人しくついてきて頂けますか?その不快感を抑える薬もあるんです。もし逃れようとするなら、私は来週の火曜まであなたを監視しないといけなくなります。」

「監視…?火曜までって…?」酷い鈍痛がする頭に手を当てながら聞き返す。

「お役所仕事ですから。今から申請しても承認を得るまで5営業日はかかります。ですので、来週の火曜日まで。もう少し早ければ良かったんですが、もう日付が変わってしまいましたから。タイミングが悪いです。まぁ、あなたにとっては良かったのかも知れませんが。」

「それは…つまりどうなるんだ!?監視って…火曜を過ぎたら自由になるのか!?」

「火曜になれば、議会の承認が得られるはずなので、処分します。」

「は?」

「あなたはレベルE。毒にも薬にもならないレベルFよりは力があるものの、レベルD以上のように私たちの機関で活躍できる可能性も極めて低い。使い道があるのなら、運用も視野に入れるのですが…まぁ今回は厄災の規模が大きそうですし。まずは、十中八九処分ですね。殺します。」

「そ、そ、そんなのダメ。」

「はい?」

「ダメだよ…殺したら…ダメじゃん。何言ってるの?警察が…。」

「そういう根回しに5営業日かかるんです。本当なら今すぐ実行したいんですが。今週は夏季講習もあるので忙しいんです、女子高生。」

「おま…受験…してんじゃねぇよ…おま…人を殺すとか言いながら…自分だけ未来、考えてんじゃねぇよ…!!!」

「未来は誰にでも平等にあるんですよ。」

「うるせぇよ!!」ぼくは持っていた使えないスマホを彼女の顔面に投げつけた。案の定というか、何と言うか、スマホは弾かれて明後日の方向にすっ飛んでいった。筋肉が無さそうな場所を狙ったんだが、表情筋と言うものの存在を忘れていた。というか、表情筋すら硬くなるのか。そんな事を考える余裕がある程度には、冷静さを取り戻していた。もとい、冷静さを取り戻す時間が生まれた。すっ飛んだスマホは、依然として彼女の右上上空にとどまり、ゆっくりと地面に落下している最中だ。これが、《ゾーン》なのか。

彼女が大して使えないレベルEと認定したこの奇跡は、確かに微妙な代物だった。物事はゆっくりと認識できるものの、肝心のぼくが素早く動ける訳では無い。居酒屋の出来事も、肘が押したグラスを手でキャッチした程度に過ぎない。あれなら反射神経がいい一般人でも出来そうだ。

ぼくは彼女の視界から逃れようと、死角に向かって動き始めた。ゆっくりと、ゆっくりと全力で走る。アオの視界を確認するため彼女の瞳を凝視した。ぼくは、思わず悲鳴をあげそうになった。辺りは変わらずスローモーションの世界に間違い無い、スマホはまだ地面に到着していない、それなのに彼女の眼球はすでにぼくを捉えている。彼女と目が合った。

「眼球にもあるのか…筋肉…!」ぼくはスローモーションの世界で声にならない声で呟く。何か不気味な音が耳に届いた。ミチミチミチという聞いた事も無い音。彼女の足元から聞こえてくる。察しはつく。またアレだろ、筋肉だろ。足の筋肉がすごい事になって、そういう事だろ。

彼女の身体がスローモーションの世界で、グインとこちらに向いた。

「超ダッシュだろ!!!」ぼくは両手を彼女の方に突き出して、防御なのか攻撃なのかどっちつかずの体勢を取ろうと試みる、しかしそれより早く彼女はぼくの眼前に到達した。彼女が何からの行動を取る前に、耳に激痛が走った。何だ、この痛みは。鼓膜でも破けたのか?激痛は耳の奥から頭のてっぺんにまで駆け上がった。痛い、痛過ぎる。この痛みは一体?ぼくは、思わず両手で耳を塞いだ。

「…え?」

両手は確かに耳を塞いでいる。さっきまで腰辺りにあった両手が、すでに耳に…。スマホはまだ空中。アオはまだ眼前にいる。ゆっくりと、アオは右手をオレに突き立てようとしていた。火曜まで攻撃しないんじゃなかったのかよ。これも自衛の範疇って言うなら、そりゃ戦争は無くならないなと思った。ぼくは再び、というか引き続きではあるが、彼女に対して激しく憤った。何故だか知らないが、今、スローモーションの世界をいつもの調子で動く事ができた。理由は分からない。しかし、アオの《硬化》があり得るのなら、このスローな世界に順応して全身が動くって可能性もあるんじゃないか?まるでジョジョ第三部のラストみたいな感じで。

ぼくは、右の拳を強く握った。が、アオの顔を見て、平手に変えた。さすがに女の子をグーで殴るのは夢見が悪い。いや、平手でも完全にアウトなんだが、彼女が物理攻撃効かない系女子なのは分かった上での事だ。あくまで回避行動。そう、これは自衛だ。アオがさんざん主張した自衛なのだ。

掌がアオの額を弾く。ドラマの様に小気味良いパチンというビンタ音がリアルタイムで鼓膜を揺らした事で、スローモーションが解除された事に気がついた。その、1秒くらい後だと思う。二軒先の雑居ビルから大きな衝突音が聞こえた。

「えっ!?何!?」ぼくは驚いて音の方を見た。壁が大きく崩れ、中のレンタルオフィスが顔を覗かせた。人払いをしてくれていて良かった。何かが衝突して、壁を突き抜けたのだ。もし人が残っていたら、あわや大惨事に…。ここまで考えて、やっと理解が追いついた。衝突音は、アオが壁に吹っ飛ばされた音だ。もとい、ぼくが彼女を吹っ飛ばしたのだ。瓦礫の奥から、彼女の声が聞こえた。

「あなた…複数持ち?《ゾーン》だけじゃないの?それとも《ゾーン》が変異したのか…。」

やっと脳が正常に戻ったのか、痛みが正常に伝わり脂汗が吹き出した。右の掌が野球のグローブの様に腫れ上がっている。指も何本か折れている様だ。ひどい有様。グロいというより、ほとんどコントの特殊メイクみたいだった。耳が大きくなっちゃった的な、そういうノリの腫れ方。こんな怪我、大病院でも見た事無いだろう。乗用車が衝突しても無傷とのたまったアオがあれだけ盛大に吹き飛んだのだから、きっと2トントラックが衝突するくらいの勢いでビンタを繰り出したのだ。そりゃ、手は壊れるだろう。

「痛い…!痛い痛い痛い…!!」

ぼくは激痛で反ベソになりながら、全速力でネオンがついている方角に走り出した。さっきみたいにスローな世界で走ったら簡単に逃げ切れるだろうけど、きっとまた反動がくる。今度は両足が壊れるかも知れない。本当に何の役に立つんだ、この奇跡って。

「対象が規制範囲外に逃走しました。方針を交渉から捕獲に切り替えます。」


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