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左ききのエレン断章「夢の順番」

「始める事と、続ける事と、終わらせる事。この3つの内、最も難しいのはどれだと思う?」

私は視線を男に戻した。学食の窓から見える桜の木。そこからパラパラと舞い落ちる花びらの行く末を見守っていたのだけれど、あまりに唐突な言葉に不意をつかれた。無論、唐突というのは内容もさる事ながら声のトーンだ。その男の語調と言い換えてもいい。男は、癖の強い猫っ毛を目にかかる程度に放置し、いつも同じジャージを着ていて、まぁ総じてお世辞にも身なりに気を使うタイプとは言え無かった。物静かで声も小さく控えめ。私とは真逆の人間だ。かと言って、男が学内で軽んじられる様な事は無かった。そもそも、芸大という場所はそんな人間が多かったし、何よりも男には色気の様なものがあった。平たく言えば、人気があったのだ。そんな男から発せられた、らしくない語調に私は興味が湧いた。

「なんの話だった?いま。」

私は、その興味を悟られまいとコーヒーを口にして飲み込んだ。断っておくと、私たちは男女の関係では決して無い。画家志望の男と、その絵のモデルだ。心地よい鉛筆が走る音と、春の温かな日差しに包まれて、今にも眠ってしまいそうな所だった。

「芸大にいる人間は、みんな何を表現をしている。ぼくも君も、分野は違うが表現をしている。そういった意味では、すでにぼくらは始めてはいるよな。」

「表現する、という事を?」

「夢と言ってもいい。」

夢。そう反芻する様に私は口に出してみたものの、久しぶりに口にしたその言葉には砂を噛んだ様な違和感があった。皮肉な事に、ここでは夢という言葉はあまり聞かなかった。一般大学はどうだろう。むしろ彼らの方が夢という言葉が身近な気がした。なぜなら、私たちが芸大でしている表現は夢と呼ぶにはあまりにも日常的だった。

「夢って?…つまりは将来の話かしら?あなたは画家になりたいんでしょ?じゃなかったら、芸大に来ないだろうし、こうして私をモデルに絵を描いたりはしない。」

「画家になる事は、最初に挙げた3つの内の、続ける手段だよ。始める事と、続ける事と、終わらせる事。」

聞けば聞くほど、私は驚いていた。まず、男がこんなに喋っているのは聞いた事が無かったからだ。私をモデルに誘った時も、ただ一言「描かせて欲しい」だけだった。私はその辺の男よりも高い身長がコンプレックスだったので、自分がモデルをする事に些か抵抗感はあった。しかし猫っ毛の奥から覗く彼の眼差しに根負けし、今に至る。もう一つ私が驚いた事。それは、男が挙げた3つには最も大事な段階が無い様に思えたからだった。

「叶う、が無いじゃない。夢が叶う、が。」

男は意外そうな顔をして、初めて私に目を合わせた。が、すぐにまた視線をキャンバスに戻す。

「夢は叶わないよ。」

「何それ。止めてよ、暗い話は。」

「暗い話じゃないさ。明るい話でも無いけれどね。夢と言い換えたのが誤解を生んだかな。これは、どう生きるかという話なんだ。何を志して、何を優先して生きるか…その人の生き方の話をしている。夢というのは、それを分かりやすく言い換えたつもりだったけれど。」

男は、絵を描く手を止めずに続けた。

「ぼくは、絵を描いて生きていきたい。」

彼の眼差しに、以前見た力強さを感じてドキッとした。それは夢を語る人間のキラキラとした輝きとは違った。見つめ続ければきっと泣いてしまう程に悲しい輝きだった。

「何になりたいか、では無く…どう生きていきたいかという話ね。その生き様を夢と呼んだのね。」

男は小さく頷く。

「だったら答えは簡単よ。始める事、続ける事、終わらせる事。その中で最も難しいのは、始める事よ。よく言うじゃ無い?何かを始めるのが一番難しいって。スタートに最もカロリーを消費するものよ。」

「一見、正しいね。それは。」

男の見透かした様な言い方に、私の自尊心がざらりと傷つく感触がした。再び、私がコーヒーを口に運ぶと男は続けた。

「始めなければ、続けられない。続けなければ、終わらせる事もできない。つまり、終わらせる事が最も難しいんだ。」

「はぁ…でもそれって順序の話であって難易度の話では無いと思うのだけど。だってそうでしょう?単純に人数の話だとしたら、終わらせる事に至る人数が最も少ないとは限らない。つまり…」

私は芸大生が日本に何人いるかと例に挙げようと試みたが、見当がつかないので止めた。

「同じ夢を見ている人が1000人居たとして。実際に始める事ができるのは100人としましょう。続ける事ができるのは、当然最大で100人になるわね。ただ、終わらせる事ができるのも最大で100人。つまり、続ける事と、終わらせる事を選択できる人数は、同数になる。それって難易度が同じだと言えるんじゃ無いのかしら?」

男は絵の手を止めて、もう一度こちらを見た。今度は私の口元を見つめている。性格上、目をまじまじと見てくる事は無いにせよ、その仕草は少なからず私の言葉には興味がある様に見えた。

「すまない。これはクイズでも思考実験でも無いんだ。何というか…雑談さ。当然答えは無いし、いやぼくの答えはさっき言った通りなんだけれど、図らずとも意地悪な引っ掛け問題を出している様な形になってしまった。」

「と言うと?」

「実際の選択肢は、3つじゃない。」

私の方もモデルのポーズを解いて、彼の方に身体を向けた。きっと眉間にシワが寄っていただろう。いよいよ不機嫌を露わに言葉を返した。

「つまり?選択肢はいくつあるワケ?」

「無限にあるよ。絵を例に挙げて言えば、初心のまま続ける以外に…そうだな、趣味として続けるという選択肢もある。教育者として続ける選択肢も、ギャラリーのオーナーや、コレクター、形を変えて絵を続けている方法は無限にある。」

「それって、終わらせる事、に含まれるんじゃ無いの?」

「初心のまま終わらせる事ができるのは、初心のまま続けられた人間だけさ。折り合いをつけて続ける事はいくらでもある。それこそ、無限にね。であれば、やっぱり難しい順番はこうだ。始める事、続ける事、終わらせる事。後に行くほど、難しい。」

折り合いをつけて続ける事。その通りだった。芸大を卒業した先輩が全員表現者として生きている訳では無い事を、私たちは痛感している。表現者という職業を、生き物を、その表現だけで生活している人間だと定義しようものならば、卒業生の大半は除外しなくてはならなくなる。その冷たい現実に目を背ける様に、私は3つ以外の選択肢を見ない様にしていた。

あえて。そう口にしてしばらく目を伏せて見せたが、続けて吐き出す。

「あえて、あなたの不毛な言葉遊びに付き合ってみるけれど、やっぱり終わらせる事はそう難しくは無いわ。選択肢が無限になろうと、100人続けている人間が居れば、終わらせる事ができる人間も100人。これは選択肢の数に限らず変わらない事よ。であれば、難易度はやっぱりトントンでしょう。」

「終わらせる事なんて、普通は選べない。」

男はこれまでで一番強く断定した。絵を描く手はとっくに止まっていた。私は男の言葉を待ち、沈黙した。

「夢を見ている間は気持ちが良いから。眠っている時に見る夢と、ここで言う夢が同じ言葉なのは偶然なんかじゃない。眠っている時の様に気持ちが良いんだ。夢を見ている限り。そのまま見続けて死ねるなら、そんな最高の人生は無いじゃないか。でも、それは叶わない。」

「あの…何か悩んでいるの?絵の事…?何て言うか…もし悩みがあるなら…」

私はさっきまでの苛立ちも忘れて、思わず母親の様に優しく問いかけた。その変化を感じてか、彼の表情も緩む。

「ごめん、違うんだよ。言ったろ。明るい話では無いけれど、暗い話でも無いって。これは…ぼくの現実の話なんだ。芸大に来て思い知ったよ。ぼくは天才じゃなかった。天才になれなかったんだ。」

男は皮肉に満ちた話題をツラツラと語るくせに、飛び出す単語は随分と青臭い。夢という言葉に引き続き、天才という言葉にもそれを感じた。

「ぼくは…終わらせる事を選びたいんだ。ちゃんと、終わらせたいんだ。才能のせいにもせず、人のせいにもせず、環境のせいにもせずに…。自分の意思で初心を続けて、その果てに終わらせたい。」

「それは…夢の心地を感じ続けたいから?それとも…」

「現実に目覚めるためだよ。」

「まるで夢を見続けている事が悪いみたいに言うのね…」

「アンナ、君には才能がある。それが何かはぼくには分からないけど、きっと人とは違う何かを持っている。」

私は首筋が熱くなるのを感じた。才能があると強く断言された事が嬉しかったし、初めて名前を呼ばれた事が照れ臭かった。

「だから、君ならきっと最後まで続けるという事ができるよ。続けて欲しい。これは…ただのぼくの願いだ。だから、ぼくは君を描きたくなったのかもしれない。」

「あなたにとって…終わらせる事は前向きな事なのね?…希望なのね。」

「うん。だからぼくは続けないといけない。本気で続けなければ、本気で終わる事はできないから。いつか、自分が絵よりも大切な現実に出逢えた時…ぼくは夢から覚める事ができるんだ。自分の意思で。」

男はその日描いた私の絵を、卒業する朝に預けてくれた。丁寧に額装されたその絵には、その辺の男よりも背が高い女が描かれている。窓の外を見つめ柔らかな春の光に包まれた女は、眠たそうな笑みを浮かべている。私は少しだけ、背が高い自分も悪く無いなと思った。もしも表現の力でコンプレックスを前向きに変える事ができるのならば、私はそれを続けたいと思う。

携帯電話も無かった時代に、私たちは再会した時に絵を返す約束をした。

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あれから何十年もの月日が経ち、私は男の娘に出逢った。

長い髪から覗く眼差し、無頓着な服装、そして得も言われぬ色気。娘は男によく似ていた。私は娘の言葉で、男がもうこの世にいない事を知った。私は悲しくは無かった。だって、娘を見れば男の人生に意味があったと迷いなく思えたのだから。男はきっと、夢を終わらせる事ができたのだ。夢よりも大事な現実は、今こうして私の前に立っている。絵に恋すると描いて、エレン。彼女は、男の人生そのものに思えた。

私はただ、絵を返す事ができない事だけが仄かに熱かった。

 


漫画版「左ききのエレン」

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