足助のおばさんと教育 54
算数教室の頃
きのう書いた、「女性のひろば」の取材を受けた頃のことを書こうと思います。
私が大学を卒業したのと、新婦人の会が「小組」活動を展開し始めたのが時期的にちょうど重なって、塾長のI先生から、「算数教室小組を始めないか」と、話を持ちかけられました。私にとっては「新婦人」イコール「小組」というイメージなので、小組がなかった頃の新婦人を想像することの方が難しいくらいですが、それ以前にも新婦人の会員さんはいたわけです。私の専門は数学ではありませんでしたが、小学校教員の免許を取るためには家庭科まで含めて8教科の単位を取っていましたので、教えることに不安はありませんでした。むしろ、テキストとして使っていた「水道方式」という算数教授法を編み出した遠山啓先生は、当時「ひと」というオリジナルな教育哲学を持った雑誌も主宰しており、共感する点も多々ありましたので、これはある意味、私にとって運命的な出会いでもあったのです。
当時はまだ日進町だった時代ですが、日進、東郷、平針、といった団地を活動場所にして、毎日分刻みで移動するほどの忙しい毎日になりました。一人1000円程度の月謝でしたが、収入的にもかなりなものになりました。
中でも押草団地で開いていた算数教室は小学1年生から6年生まで60人を超える生徒があり、後に我が子が通った足助の小学校一つ分の人数を数えるほどでした。それでも算数教室の需要はとどまらず、とても私ひとりでは指導できないので、会員さんの中に「お母さん先生」を養成することまではじめました。そうこうするうちに、東郷町では新婦人の会員が、女性有権者の5パーセントにまで増えて、当時の支部長さんが、新婦人しんぶんの新春インタビューのために上京されたりもしました。また私は、お母さんである会員さんの教育懇談会にも取り組みました。若造の私の言うことをみなさん一々うなずきながら聴いてくださって、今思えば本当にありがたいことでした。
そんな押草団地で、夏休みのイベントを開いた時に件の「ひろば」の記者さんが取材に訪れたわけです。大鍋にいっぱいのカレーと、炊飯器5台分の白飯、その湯気だけで記者さんは圧倒されていました。確か、当初4ページの予定が6ページの記事になったと聞きました。
残念ながら、手元に当時の「ひろば」はないのですが、私にとっての一つの黄金期ではありました。(2009年6月8日 記)