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足助のおばさん 田舎暮らし 167

夫が、足助から名古屋へ通勤していたため、子どもたちが小学生の前半まで、というか、私が発病するまでは、PTAの仕事はもっぱら私の受け持ちでした。

田舎のことですので、私が愛知教育大学の出であることは職員室には知られていて、私は先生たちに準じる扱いを受けていました。

「すこやか賞」なるものにチャレンジしようと言い出したのは、わが子たちが小学生になる前のことでしたので、詳細は知りません。ただ、賞を受けるにあたり、審査員の先生たちが来校していろいろと訊かれることになりました。そのインタビューを受ける立場のPTAのメンバーに、まだ娘が1年生だった私が選ばれたのは、↑の理由以外の何物でもありません。

そして、見事に小規模校の部での受賞が決まると、大変なのは翌年でした。全国から視察の教師や関係者が訪れるので、そのための研究授業を用意しなければいけませんでした。この年、娘が小3息子が小1になり、自分の時間をシナリオとPTAの活動に捧げていたと言ってもいい年でした。シナリオを書いていた時のことは「夢の続き」というケータイ小説にしてUPしてあるので、興味のある方は読んでください。

その一方で、教職員がガチで私に頼っているのが身に染みたものですから、私も全力で応えました。「子どもの権利条約」を全校で学ぶ取り組みにしたらどうかと提案して、受け入れられたのです。(2016年9月21日 記)

子どもの権利条約」は1994年に日本でも批准された条約です。日本では、この条約が発展途上国の児童等を対象にしたものであるとして、長く批准が見送られてきました。

さて、教職員の中に、子どもの権利条約について知識のある人はありませんでした。ただ、これまでのPTAの活動が、「自然に優しくしよう」「障害のある人にに優しくしよう」という具合に進んできて、それじゃあ自分自身のことを大切にしようという方向で進むということは、確認されました。

あとはもう、私に任されたようなものです。私は、児童に出演してもらう10分間程度の寸劇の台本を作り上げました。シナリオのプロを目指していた私ですからたやすいことです。

ただ、この劇に箔をつける意味で、私は大学時代の恩師に逢いに行き、ここに至る経緯を話して、感想を聞くということを抜かりなく踏まえました。

今は、名古屋でも平気で車で出かけるようになりましたが、卒業後10年以上たった母校を訪ねる時には少し遠出をした気分でした。恩師とは4コマ目の授業時間にアポを取っていたので、その前の時間に劇場版エヴァンゲリオンを見たのは、忘れられない思い出です。ああ、自分の出る幕は終わったな、と思いました。(2016年9月26日 記)(2022年11月15日追記:「シナリオライター」としての「出る幕は終わった」という自覚です。)

時系列がもうわからないのですが、子どもの通う小学校が「すこやか賞」を受賞して、翌年、研究発表校になり、学校とPTAの共催で「子どもの権利条約」の寸劇をやることになりました。

子どもたちに、おなじみのキャラクターに扮してもらって、「子どもには、幸せになる権利がある」ということを理解してもらう劇でした。脚本は私です。

ところが、いざ発表の前に、何が原因だったか、私は何度目かの病気の発作に襲われてしまったのです。

担当部長の私が不在のまま劇の発表は無事行われたのですが、夫は、私をこれ以上PTAにかかわらせるのは危険だと考えたようで、この後夫がPTAの活動に参加するようになり、夫は会長も務めました。そうなってみると、夫はPTA会長に適任だったようで、子どもたちが中学になっても会長をやっていました。

そして、私は連句に専念するようになっていったのでした。

子どもが高校生から後は、全く夫の独断で子どもの進路は決まってゆきましたが、高校は、偏差値ではなく愛知県内としては珍しく生徒の自主活動が重視されている私学に通わせたことは、私の理想でもありました。

ということで、4回にわたって記述してきたPTAの頃の話題を終了します。(2016年10月6日 記)

(元ブログ Here Come the 足助のおばさん (asukenoobasann.com)Here Come the 足助のおばさん (asukenoobasann.com)Here Come the 足助のおばさん (asukenoobasann.com)

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