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(私小説) 運命は扉をたたくか No5

崩 壊

復職(宣告後三年半)


 
 会社の上司にもなにがしかの期待を込めて、良くなって帰ってきますと言って入院したのに、私はどういう風に上司に報告をしたらいいのでしょうか?退院してしばらく自宅で静養後、会社に電話をしました。私は、いつから出勤しますということを伝えて出勤するつもりでしたが、会社の回答はそう簡単なものではありませんでした。

 三ヶ月を超えて長期欠勤すると休職扱いになるのですが、再度出勤するときには復職願いを出し、さらに会社指定の産業医の診断を受けないといけないと言うのです。もちろんこの手続きは就業規則で決まっているものですが、私はこのとき会社指定の産業医が、どういう目的で設けられているのか知りませんでした。

 何も知らないまま庶務部の係長とその医者の元を尋ねました。当時私は足首が反らないため、L型の装具を足にはめていたため、いったん靴を脱ぐと履くときに大変でした。その産業医はフローリングの床を土足で上がる事を快く許してくれ、私は優しそうな先生なのでほっとしました。
 そして病院で書いてもらった診断書をその産業医に渡しました。あまり流行ってない個人医院で、その人は七〇歳過ぎのお医者さんでした。診断書に書かれた『封入体筋炎』という病名を、失礼ながら詳しく知っているようには見えません。
 私は産業医がしばらく診断書を見ているのは、その病名を知らないのをごまかすためではないかとさえ思いました。やがて彼の口を開いて出た言葉は思いがけないものでした。
「復職というのは治ってからにしてはどうですか?」

 私のこの難病が治るというのは夢のまた夢に過ぎません。言いにくいことを会社の代わりに言うのが産業医の仕事だったのでしょうか?なんと残酷なことを言う医者だと私は思いました。はいとは返事できません。しばらく沈黙が続きました。その場の気まずい雰囲気は庶務部の係長が取りなしてくれ、とりあえず五月の連休明けから出勤することに話をまとめてくれました。どうにか関門をクリアーして、また会社つとめが始まりました。


再入院


 
会社つとめにも慣れて、やっと元の生活になじみ始めた六月のある日のことです。
帰宅して二階の階段をあがったとたん、猛烈な息苦しさが襲ってきました。何とかベッドにたどり着き、そのままばたんと倒れ込み、思い切り息を吸いますが、空気を吸った感じがしません。十分ほどするとようやく息苦しさが取れました。
 しかし起きあがり、何かするととたんに息が切れます。とても会社になど行けません。次の日から欠勤し、自宅で休んでいましたが、息苦しさは取れません。
 三日目に近くの大きな病院で検査を受けると、動脈中の酸素の量が極端に少ないと言われ、その場からまた長期入院した元の病院に救急車で運ばれました。

 実は退院の朝、主治医の見送りはありませんでしたが、同室の患者が門まで見送ってくれて、別れ際に、またおいでと言われたことを、サイレンの音を聞きながら救急車の中で思い出しました。私は数ヶ月でまた、お招きに甘えて、なじみの病院に入院したのです。

 後になって調べるとプレドニンの大量服用の後遺症として、血栓ができやすくなると書かれています。狭い病室の中だけで生活をし、ほとんど運動をせずに寝たり起きたりだけの生活を半年間していたのですから、まさにその血栓ができていたのです。

 その病院には二、三日いたのですが、心電図の結果、主治医はどうもこの病院では治療が難しいからと言うことで、私を心臓疾患に詳しい病院に転院処置を取りました。 もしこのとき転院していなければおそらく私の命はなかったことと思います。というのも転院した先の病院で、私は急な発作を起こしたのです。

 その時私は比較的症状が安定していたので、個室から大部屋に移る途中で、看護師が荷物を持ち、私がちょうど部屋を出ようとしたときです。急に息が出来なくなり、
「あ、あ、あ」
とうめきながらベッドに倒れ込みました。看護師があわてて酸素マスクを鼻に当てたのを覚えています。

 次に目が覚めたのは集中治療室です。ところが声も出せませんし、手も動きません。おまけに胸のあたりがズキズキ痛みます。私がベッドに倒れ込んだ時、朝の朝礼でちょうど先生方がすべておられ、私のパジャマをあっという間にはさみで切り裂き、緊急の手術が行われたそうで、詳しいことは知りませんが、体に何本もカテーテルを通しただけでなく、呼吸が止まったことで、挿管チューブまで処置したそうです。胸の痛みはベッドに倒れ込んだとき、一時心臓が停止したので、先生が馬乗りになり、心臓マッサージをした名残りだと言うことを後で知りました。

 目を覚ましたとき、どういう訳か妹も兄も、父も母もいましたが、それは家族を呼んだ方がよいという状況にまでなっていたと言うことでした。

 ところが、ここまで危ない状態になっていながら、当の本人は気絶していましたので、何が起こったのかさっぱり分からず、おまけに、この緊急手術のお陰で、肺動脈の血栓が一気に取れ、それ以降、息苦しさは嘘のようになくなり、何で私がこの病院にいなければならないのか自分でも分からないほど、急激に元に戻ったのです。

 ただ嘘のように良くなった引き替えに、医者からは血栓を溶かす薬を一生飲み続けないと言われました。先の病院で初めて聞きなれないホルモン剤を飲み始め、一生飲みるように言われて退院して、直後に肺血栓を引き起こし、その結果、血栓防止剤を一生飲むことになったわけです。

 私はいい加減、薬という物に嫌気がさしてきました。おまけに血栓防止剤は予防に他なりません。私は医者に黙って、この血栓防止剤を飲むのをやめてしまいました。それからしばらくは何もありませんでした。

再々入院


 
 平成元年の夏のことです。ホルモン剤をもらいに、例の病院で恒例の血圧と脈拍を測定しました。そうすると脈が一〇〇を優に越えています。息苦しくはありませんでしたが、再び検査をすると、また血中の酸素が減っています。なんと私は、血栓を溶かすため再び入院しなければなりませんでした。もう一人の主治医は物静かな人でしたから、私が血栓防止剤を飲んでいないことを聞いても、怒りはしませんでしたが、一言
「飲んで下さい」
と言いました。

 今回の入院は出来た血栓も大したことがなかったらしく、三週間ほどで退院できましたが、三月に退院してきて五月に復職、六月に肺血栓で入院し、七月退院、八月再入院、九月退院と実に半年の間に退院三回、入院二回したことになります。もう生活のリズムも何もかも無茶苦茶になりました。民間の会社がここまでこよなく入退院を愛する人をどういう風に見るのでしょうか?

 

冷遇


 
 私が入退院を繰り返していた翌年の四月、私になにかと仕事を作ってくれていた上司が別の部署に行き、変わって製造現場の『たたき上げ』が、開発室の室長になりました。
 この室長はもともとは、技術開発室の課長で、そのあと、製造部の部長となり、製造現場で数年実績を積んだ後、元の技術開発室に戻り、室長になりました。

 実はこの人が入社早々の私を鍛えた上司であり、とにかく、試作品を早く完成させろと徹底的に言われました。前の上司は温和な方でしたが、この室長は製造部の部長時代、とにかく納期の鬼といわれた人で、ほんわかとしたところが全然ありません。杖をつき、机に向かって雑誌を読んでいる私に、わざわざ仕事を作ってくれるほど暇ではありません。私に話しかけてもくれません。新しい室長には私のことが念頭にない事が分かりました。

 もう本当に仕事というものがなくなりました。私は毎日図書館に本を読みに来ているようなものです。コンピューターこそ取り上げられませんでしたが、仕事を依頼されることがまったくありません。朝、パソコンの電源を入れ、表計算ソフトを使って複雑な表を作り上げます。昼からまたパソコンの電源を入れ、作ったその表を消してまた一から作り直します。ギリシャ神話に複数の求婚者から逃れるために時間稼ぎの編み物をし、完成するとまた糸をほどいて編み直すという女性の話がありますが、私もまた同じでした。

 一時期、私は職場での読書にも孤独感にも慣れたはずでした。しかしその私でさえ今回のこの待遇は応えました。私は肌でもうあんたは要らないよということを感じたのです。あんたは要らないよと無言で言われながらも、何とか会社に行き続けたのは他ならない生活のためでした。毎日本を読み、書いては消し、書いては消しという空しい作業をしていました。私はやっている仕事の意味が全くわかりませんでした。

 とうとう限界が来ました。私は長期欠勤をし始めました。初めは二、三日でしたが、その内一週間になりました。この時期、製造現場のある人が悪魔のような優美なささやきをしました。普通三ヶ月連続して欠勤すると休職扱いになるのですが、その一日前に出勤してまた休めば、休職にならないと教えてくれたのです。私は忠実にその人の言うことを実行し、作戦通り一日前に出勤したのです。

仮病入院


 
 次の日、私は仮病で馴染みの病院に入院しました。ところがどういたことか、入院したその日、会社は私に休職を命じたのです。非常識な作戦は失敗でした。もう私は会社そのものに行くのも嫌になっていましたので、母親に辞令を取りに行ってもらいました。

 私は私でいろいろな思惑を持っていましたが、それ以上に会社は私に対して思惑を持っていたのだと思います。民間企業は生き残るために出来るだけ不要な経費は削減します。私はまさに不要な経費そのものでした。社会的な意味では、私は会社にとってじゃま以外の何者でもなかったのです。

 しかしながら、障害で役に立たないという理由でもし辞めさせたら、社会的な批判は相当のものがあります。そこは大人として、私の方から辞表を提出せざるを得ないような状況に追い込めば、おのずとそういうことが起こるだろうという目算はあったと思います。私にはそれなりの仕事さすという考え方もあったかもしれませんが、やはり何も与えずに、自分の方から会社が嫌になってやめるだろうという考え方の方に会社は傾いたのではないかと思います。

 病院のベッドで交付された辞令を見ても、もはやショックもなにもありませんでした。病気で休職し、満期を待って退職しようと心に決めていたからです。どうにでもしてちょうだいという気持ちでした。

 こういういい加減な投げやりな私に引き替え、気の毒なのは仮病とも知らずに担当となった駆け出しの医者です。
 笑い話になりそうですが、なにぶん仮病ですから、どうしました?と医者に聞かれると、作り話をしなくてはなりません。これには結構苦労しました。めまいがしますと適当に話をすると、耳鼻科に連れて行かれ、頭を下にして急に持ち上げられたりします。私は本当にめまいでクラクラしました。
 ふらふらしますか?と聞かれ、さて、こういう場合は、ハイと言って、何をされるか分からないので、答えに時間がかかりました。毎日めまいがしますでは、品数が少なすぎます。二日に一度はむかつきますと言うのを付け加えました。そして二ヶ月ほど経ってその若い医者に、だいぶ良くなりましたと報告すると、実に喜んで退院の手続きを取ってくれました。

堕落


 
 退院して家に戻りましたが、何もすることがありませんし、何もしたくありませんでした。毎日部屋でテレビを見るだけです。どこにも出かけませんでした。それはこのころになると、杖をついて歩くにも相当神経を使う必要がありましたし、近所の人にそんな無様な格好を披露するのは絶対に嫌でした。次第次第に何も出来なくなっていく自分に、いったいどういう将来があるというのでしょうか?その年々悪くなっていく体と一生つきあわねばなりません。何のために生きているというのでしょうか?

 もはやこの時期、私は地面にはいつくばって肩で息をしていたに過ぎません。なぜ発作で倒れたときにそのまま死ななかったのか、あのまま目覚めなければ良かったのにとつぶやいて、母親に本気でしかられました。
 昼前にようやく目を覚まし、テレビを見るだけの生活です。深夜テレビの放送が終わると、録画しておいたビデオを見て明け方に寝るという生活を繰り返していました。

 もはや会社では必要ないと無言で言われ、さらに次第次第に歩くのが難しくなり、どこまで悪くなっていくのか誰にもわかりません。友達もなく、相談する相手もなく、ただ無意味に生きているだけでした。
 休職して一ヶ月、二ヶ月はあっという間に過ぎてしまいました。しかしこのままではだめになるという焦りもあがきもありません。私はそれほど落ち込み、無気力になっていたのです。そんな自堕落な生活をしていると、季節は駆け足で過ぎ去り、年が明け、冬が過ぎ、あっという間に春が来ました。



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