(私小説) 運命は扉をたたくか No10
結 び
人生をやり直したいという人は多くいます。生き方を変えたいという人もいます。その多くの人は一体何をするのでしょうか。実際のところ、どうしていいかわからず、いたずらに時間がすぎるように思います。自分を変えたいと願う多くの人の気持ちは純粋です。
しかし、人が生き方を変えるというのも大変な話です。自分が決めた好きな事をやって、自然と自分が変わればそれは願ってもない話です。自分が変わるというのは、好むと好まざるにかかわらず、新しいものを受け入れる必要があります。と同時に古いものを捨てる必要があります。
しかしながら、彼女のように全く新しいものを受け入れないのが人の常です。私は生き方を変えたいと願ったわけではありません。目の前に突然難病女性が現れました。医学では治せない難病です。しかしどんなことがあっても命に代えても彼女に治ってもらいたかったのです。それは難病の子供を抱える多くの母親の気持ちと同じです。どうにかして、どうにかして、何とかしてという究極に、私はもう一度、創価学会の御本尊に向かいました。それ以外なかったのです。
人のために命をかけて祈るという初めての経験でした。結果として彼女は自分の道を選び、私から離れていきました。私の言い方が余りに稚拙で、無理強いしすぎたと思います。余裕もありませんでした。
私の恋愛は成就しませんでしたが、人のために命をかけるというその結果、私自身が大きく変わりました。
中国天台宗中興の祖と称せられる妙楽大師(七一一年~七八二年)は
たとえ発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶多し
(大正新脩大蔵経46巻170㌻)
たとえ、信心がまだ本物でなくとも、正境に縁すれば、その功徳は絶大であると説かれているのです。
私は、祈らざるを得なかったので、創価学会の本尊を自然と受け入れたのですが、『正境』という創価学会の本尊に『縁すれば』、『功徳猶多し』となりました。
ここでいう功徳とはお金が急に入ってきたというような意味ではなく
日蓮の御義口伝巻下
功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり、法華経の説文の如く修行するを六根清浄と得意可きなり云云。
『六根清浄』つまり、人間の基本的な眼,耳,鼻,舌,身,意の六つの生命活動そのものが正常になると書かれています。つまり、健康になり、人格が向上するということです。
私は今、大きな大きな自分に会うために、朝と晩にご本尊に向かいます。真剣な題目を重ねていると、自分の目の前には広大な世界が広がり、やがて大きな自分と巡り会うことができます。
その後、私は五十才を過ぎて、広く社会に目を向け、難病や障害で苦しむ人のために介護事業所を開設しました。この話はまた別にお話ししたいと思います。
このことを教えてくれたのは、たまたま知り合った難病の彼女であり、本人はそうするつもりはなかったにせよ、私をこの広い世界に導いてくれました。もし彼女がいなければ創価学会に戻ることもなく、病気も進行し、ひょっとすると寝たきりのまま、小さな世界で悩んだ人生を過ごしていたかもしれません。
私と知り合った当時は、エイズの発症を抑えることは難しいといわれていましたが、この病気も研究が進み、新薬も出て、指示通り服薬していれば、慢性病として普通の生活ができるという時代となりました。今は旦那様と静かな生活をしている彼女には、深い深い感謝があり、この私を大きな大きな自分に出会わせてくれた創価学会のご本尊にも、深い深い感謝があります。
私にふりかかった脊髄性進行性筋萎縮症とは、新しい生き方をするためのドアであり、私の出会ったこの大好きな創価学会は、そのドアに続く大きな道でした。私は目の前にどこまでも続くこの広い道を死ぬまで歩み続けます。
この物語を読まれたどなたかが、自分の知らない、大きな大きな自分に出会うために、いささか疑いながらも(本気でなくても)、創価学会の本尊に向かい、その結果を体験されることを心より願って、この物語を終わりたいと思います。
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