「親ガチャ」について思ったこと


 今日、「親ガチャ」という言葉がTwitterのトレンドに上がっていた。

ジャニーズや女子アナが番組内で「親ガチャは嫌な言葉」という意見を述べたことに対しての反応のようである。そこに並ぶツイートは大体が、

「親ガチャという言葉が嫌な人は親ガチャに成功している人だ」
「努力ではどうしようも無い場合があるのに分かっていない」

というような番組内の発言に対して否定的な内容だった。

 私もこれらのツイートと同じく、「努力でどうにでもなる」的な論調には否定的であるし、どうしようもない所謂「毒親」もいることは認める。
しかし、「親ガチャ」という言葉には私はかなり違和感を感じる。その理由を以下で述べたいと思う。

「親ガチャ」はガチャではない

まず「親ガチャ」という言葉の意味を確認してみる。

親ガチャ
読み方:おやガチャ

子どもの立場から「親は自分では選べない」「どういう境遇に生まれるかは全くの運任せ」と述べる表現。ソーシャルゲームにありがちなキャラクター入手方法(いわゆるガチャ)になぞらえた言い方。

親ガチャとは逆に、親の立場から「どんな子が生まれてくるかは任意で選択できない」状況を表現する言い方を、「子ガチャ」と表現する場合がある。子ガチャの方が親ガチャよりもソーシャルゲームのガチャに近い構図といえる。

後半部分に私が言いたいことと似ていることが書いてあるのだが、私が思うのは

「親ガチャ」は「ガチャ」とは根本的に違うのではないか

ということである。

「子ガチャ」の場合
 親が子供を作るときには様々な遺伝子の組み合わせの可能性がある中で、ある特定の遺伝子配列に確率的に決まり、その遺伝子を持った子供が産まれてくる。そのため、同じ両親から生まれた子供でも遺伝子は異なるし、別の子供が生まれてくる可能性もあったと考えられる。つまり、様々な可能性の中から偶然選ばれた個体が生まれてくるといえる。この点で、ガチャと構造的に類似していると言える。

「親ガチャ」の場合
 一方、子供側の視点から見てみると、両親は自分が生まれてきた両親しかありえない。遺伝子が親により決定され、精神が社会構造や環境によって構築されると考えると、ある個人の肉体・人格は、その個人が生まれてきた両親及び環境の元にしか存在しえない。つまり、その個人と全く同じ性質を持った人間が別の親の元に生まれてくるのはありえないのである。そのため、運悪く今の親の元に生まれてしまったが、別の親の元に生まれていればもっと良い人生だったという考えは全くもってナンセンスである。なぜなら、あなたはあなたの両親からしか生まれて来ず、別の親の元に生まれていたら、それはもう「あなた」ではないからである。

 以上から、「子は親を選べない」という言葉に対してはまさに何の違和感も無いが、「親ガチャ」という言葉には別の親の元に生まれてくる可能性もあったような含みを持たせていて違和感があるのだ。

「親ガチャ」という言葉の感覚的背景の仮説


 しかしながら、論理的には「ガチャ」と「親ガチャ」の構造は似ていないが、「親ガチャ」という言葉自体は一定の市民権を得ている。個人的な仮説だが、これは日本において輪廻転生のような考え方が一般的だからではないだろうか。日本においては、前世や来世などの言葉が一般的に使われており、個人ごとに誕生前から死後まで不変である存在(魂)が意識されていると思う。このような考え方をベースとして、「自分の魂がどの夫婦を通してこの世に生まれてくるのか」と考えているとすると、「親ガチャ」という表現が広まっていることに納得できる。物語のジャンルとして異世界転生物が受け入れられているのも、魂の存在が意識されているからかもしれない。

まとめ

 以上、ここまでは「親ガチャ」という言葉について考えたことを書いてきた。今日読んだ『哲学と宗教全史』(出口治明 著)に影響されて、宗教的な角度から考えてみて、面白いと思ったことについても述べた。まとめると、「親ガチャ」という言葉が広まっている理由は分かるが、深く考えると言葉の定義としては変ではないか、というのが私の考えである。

補足

 一応、「親ガチャ」の根本的な問題である生まれつきの環境格差問題についても少し触れておく。私の意見としては、生まれつきの格差については一旦は受け入れるしかないし、他人の人生を体験することはできないのだから他人と自分の苦労を比較すること自体に意味がないと考えている。同様に、幸福の普遍的な基準は存在しないため、不幸さの比較も全く無意味である。どうしようもない格差を受け入れた上で、どのように行動するかを考えるしかないと思う。不満や文句を言うことを否定しないが、その行動が本当にストレス発散になっているのか、必要以上に文句を言うことで却ってイライラや負の感情を増幅することになっていないかは気をつけた方が良いと思う(自戒も込めて)。悲しいことだが、子供は親を選べないし、どうにもならないこともたくさんある。DV被害や育児放棄などの親からの虐待にあっている子供に対しては公的機関の助けが行き届く社会になることを切に願う。一方で、健康で文化的な生活がある程度送れているのであれば、「足るを知る」というのも一つの不幸からの脱却方法である。現代はSNSの普及によって、他人の生活の良い面ばかりが目に付き、上ばかり見てしまいがちである。一度SNSやインターネットから離れて、自分にとっての幸せとは何かを考えてみても良いかもしれない。前述の『哲学と宗教全史』はそのようなことを考える上でとても参考になった。


 ここまで読んでいただいた方には感謝申し上げたい。初めてのnoteでどのように書けばいいか分からず、まとまりが無くなってしまって申し訳ない。考えたことをつらつらと書いているだけであるので、読みにくい・分かりにくい部分も多々あったと思うが、大目に見ていただきたい。

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