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変換人と遊び人(14)(by フミヤ@NOOS WAVE)

~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~

“遊び”のフラクタル性について⑪

さて、ここからは、いよいよ“遊び”の本質に迫ることにしよう。

じつはホイジンガは『ホモ・ルーデンス』(Ⅰ文化現象としての遊びの本質と意味)において、まず「人を夢中にさせる力のなかにこそ遊びの本質がある」と喝破し、続いてその「人を夢中にさせる力」がもつ最大の特徴的要素が「アールディヒヘイト(aardigheid:オランダ語で「面白さ」を表す語)」である、という見解を示している(フミヤ注:“aardigheid”は娯楽全般を指す語でもある)。さらにこの語について彼は、語頭の“aard”が「あり方、本質、本性」を意味するドイツ語の“Art”に対応していることを踏まえて、こう述べる(同上)。

・・・・・・「面白さ(=aardigheid)」とは本質的なものだということである。つまり、「面白さ」とは、それ以上根源的な観念に還元させることができないものであるということの、いわば証明になっているのが、この言葉なのだ。

要するにホイジンガは、いかなる観念にも還元され得ない、それ自体が根源的である「面白さ」がもつ本来的な力にこそ“遊び”の本質がある、と結論づけたわけだ。

「あたりまえじゃん。そもそも遊びは面白いから遊びなんだし・・・・・・」と仰る向きもあるかもしれないが、ここで重要なのは、その「面白さ」「面白い」ということ自体が、それ以上なにものにも還元され得ない根源的なものだという指摘だ。だからこそ“遊び”は、前稿にも記したように、生命体が先験的にもつ自己完結的機能として完全に自由で能動的な営為だと言えるのであり、したがって、それ自体が「精神」の存在証明たり得るというわけだ(ただ、ジョージ・バークリーが示した「存在するとは知覚されることである」という命題にしたがえば、誰もがつねに「知覚」できている「精神」に存在証明など無用!ということにはなるけれどw)。

しかし「面白さ」「面白い」ということは、ほんとうに根源的なものだろうか?オランダ人学者が言うことを真に受けてもいいのだろうか?・・・・・・そんな疑念が生じてもおかしくないので、以下、西洋語ではなく日本語ベースでそれを検証してみたい。

私たち日本語ネイティブにとって「面白い」「面白くない」という表現はきわめてフツーで日常的なものだが、はてさて、では、この「面白さ」「面白い」という語・概念の源泉(語源・由来)はいったいどこにあるのか、そしてそれはホイジンガが言う「人を夢中にさせる力」に紐づくものなのだろうか。まずはそれを明らかにしないことには、上記の「ほんとうに根源的なものか?」という疑念に対処したことにはならないだろう。だがその前に、「日本語ベース」と先述したことに鑑みて、どうしても触れておかなければならない重要事項がひとつある。ほかならぬオコツト情報がそれだ。すなわちスピナーズのみなさんの多くが先刻ご承知の、

世界の言語のうち、唯一、日本語だけが付帯質を前にもつ

というメッセージである(↓半田教授によるレクチャー動画30:00~37:00参照)。

しかしこの「唯一、日本語だけが・・・」という限定表現から受ける印象には、いかにも日本社会(世間)が好みそうな「日本/日本人スゴイね」論がもたらすそれに近いものがある。ここで話はそれるが、じつは私はデキの悪いサラリーマン的遊び人(あるいは遊び人的サラリーマンw)を務めたことがあり、その期間の大半は日本国内ではなく、海外の約10ヶ国・地域に居住(中長期滞在)して過ごした。そのためか、日本では世間ウケする「日本スゴイね」論的なものはあまり好きではない。いや、正直に言えばキライだ。というのも、その種の情報に接する度に、「アホか!それは京都や奈良だけじゃない、ミュンヘンや上海でも同じなんだよっ」とか「日本人特有の気配りで・・・だって?冗談じゃない、そのケースならベトナム人やフィリピーノだって同じことをするよ!」という具合に脊髄反射的に反応してしまい、精神衛生上よろしくないからだ(概して遊び人には天邪鬼が多いのだが、ご多分に漏れず私も・・・というだけのハナシかもしれないw)。

ところが、いかに「日本スゴイね」テイストを伴うといっても、また自身がいくらアマノジャク体質でも、このオコツト情報には反論のしようがない。反証材料が見あたらないのだ。私はけっしてポリグロット(多言語使用者)ではないが、滞在先ではそれぞれの現地言語でなんとか単純な日常的やりとりを行えなくもなかった。そこで、かつて約10ヶ国・地域で交わしたり耳にしたりした短い会話を思い起こしてみたところ、そのすべてが「主体(主語)が対象(もの)の手前」にいることを前提とした、(後ろに付帯質をもつ)思形ベースの語法で構成されていた!という事実に気がついたのである。したがってオコツトのメッセージには、(机上の演繹ではなく)現場からの帰納において、深く納得させられた次第。

そしてこの「付帯質を前にもつ」という日本語だけの特質は、「面白さ」「面白い」という語・概念の源泉を探るプロセスを経て到達した最終地点において、あたかも果実が結実するように、明瞭な輪郭を伴ってその鮮やかな姿を顕してくれたのである。・・・・・・というわけで、話を本線に戻そう。

「面白い」という語自体は、「おもしろし(万葉仮名では、於茂志呂、於茂志呂之、於毛志老志などと表記される)」という奈良時代の上代日本語(大和言葉)までさかのぼることができる。しかし、だからといって、これが即「ほんとうに根源的」であるということの証左になるわけではない。「面白い」に意味的に近似する「楽しい」という語も、同じく奈良時代の「たのし(万葉仮名:多能志など)」までたどれるのである(とはいえ、もうひとつの近似語「おかしい」の源泉である「をかし」の用例は平安時代以降に限られる)。

いや、そんなことよりなにより、この「おもしろし」という大和言葉が「面白い」の源泉であるとして(それはほぼ明らかだが)、それがホイジンガの言う「人を夢中にさせる力」に関連する要素を秘めているのかどうかがカギだろう。それなら、「ほんとうに根源的」であるか否かを判定する基準はその一点にキメ打ちしよう・・・・・・。そう考えた私は、結局、迷路のように複雑でトリッキーな隘路を戸惑いつつ進むハメになった(笑)。

そのややこしいプロセスの道中は各老舗出版社の『古語大辞典』『語源辞典』をはじめとするツール類を携えながらのものだったが、泉下の碩学(賀茂真淵、本居宣長、橋本進吉、九鬼周造、時枝誠記、大野晋など)や文人(折口信夫、埴谷雄高、丸谷才一、井上ひさし、池田晶子、大岡信など)が遺した叡智に加えて、名著『バベルの謎』『からごころ』や半田教授ご推薦の『日本語の哲学へ』などの著者でいらっしゃる埼玉大学の長谷川三千子名誉教授のご卓見などが、ときに応じて羅針盤の役目をはたしてくれたことを記しておこう。

おかげで遊び人はなんとか最終地点に到達できたのだが、じつは道中で最後の案内人を務めてくれたのは、なんと、天岩戸(アメノイワト)からお出ましになった天照大御神(アマテラスオオミカミ)だった・・・・・・。

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