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変換人と遊び人(26)(by フミヤ@NOOS WAVE)

面白きこともなき世を面白く⑨
~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~

ヌーソロジーがこれまで刻んできた軌跡を前にして「アハ!」「あはれ!」感を覚えるという直近の内的体験を報告したけれど(前稿)、大事なことを書きそびれていたので、本稿ではそれを述べておこう。ひと言でいえば、ヌーソロジー理解にはイマジネーションが欠かせないというシンプルなことだ(「あたりまえだろ!」といわれそうだけど)。

イマジネーションは一般には「想像力」という訳語が定着しているけれど、本稿ではあえて「描像力」と捉えたうえでこの語を用いることにしたい。ほとんど同じかもしれないが、テキストオタクを自任する遊び人としては、妄想、憶測、心配、懸念や思い込みなどが引き金となって生じるイメージを指す場合が多い「想像」と、その種の想念とは無縁に喚起/励起され、念頭に描きだされるイメージを表す「描像」には小さくないニュアンスの差を感じるからだ。やはりヌースにフィットするのは、「想像」ではなく「描像」なのだ。

さて、新幹線の車内で詩人・河村悟さんの作品にはじめて接した際、あまりにも豊饒な哲学的メタファーの海に溺れかかったことは前稿に記したとおりだが、このお恥ずかしいエピソードに即して私は“詩に臨むスタンス”に触れたと思う。そしてそれは詩に「意味」を求めるのではなく表現をそのまま受け取って自らの内に収容し、イマジネーションに委ねる態度だとエラソーに記した。まずはこれを補足説明しておきたい。

誤解を恐れずにいえば、詩(もちろん和歌・短歌・俳句などの定型詩も含む)というものは、なにがしかの「意味」の伝達を目的として詠まれるのではない。それは声に出して詠まれたり暗唱されたりすることを前提としたあくまで韻文(聴覚に訴える音韻、音律、音調がベースの文字テキスト表現)であって、そうした前提とは無縁の、「意味」伝達を旨とする表現型式としての散文(視覚に訴える文字テキスト表現自体がキモになる小説、エッセイ、論文その他一般の文章)とは大きく異なる。だから韻文としての詩に「意味」を求めようとするのは、いかにもお門違いなのだ(ナイフとフォークで寿司皿に向かうようなものか)。ところがこれは学校教育の成果ではなく悪しき結果というべきだろうが、いまや私たちは詩を前にしても散文に向かう際と同様、真っ先に「意味」を求める“お勉強スタンス”がすっかり身についてしまっている。
 
本来ならまずは詩の表現をまるごと、そう、あらゆる植物の種を無条件に内部に取り込む大地のように、自らの内に種(種子)として収容しなければならない。それ抜きで詩のテキストを読むことはできても咀嚼して味わうには至らず、味わえなければイマジネーションに委ねてそれをおのずから力強く羽搏かせることもできない。そんな取り込み・収容自体は概して瞬時に(無意識裡に)行われるが、私が河村さんの作品で経験したように相当の時間を要することもあるだろう(散文詩の場合は往々にしてそうなる)。しかし忘れてならないのは、詩は文芸、つまり立派なアートだということ。散文の小説も詩と同様に言葉を用いて創作される文芸作品だが、聴覚訴求要素が必ずしも基盤ではないことから、アート性は低いと私はみる(低いとみるのはあくまでアート性であって、けっして価値が低いといっているわけではない、為念)。

とにかくアートは瞬間的にであれじっくり時間をかけてであれ、自らの内に取り込んで味わってナンボ。そこに「意味」を求めようとする限り「わかんないよー」と嘆いてオシマイとなるのがオチ(味わいを拒むという消極姿勢がもたらすオチ)であり、これではイマジネーションは永遠に羽搏かない。いったい誰がモーツァルトやベートーベンの楽曲、ピカソやシャガールの絵画、ジャコメッティや岡本太郎の造形に「意味」を求めようとするだろうか。いみじくも河村さんが「アートというものは、ほかのなにものにも還元できない」と指摘されていたように、詩も「意味」に還元できないアートにほかならないのだ。だから詩に「意味」を求めたがる人は、演奏後のシューマンに「いまの曲は・・・?」とその「意味」を訊ねた聴衆のひとりと同じで、自らイマジネーションの羽搏きを封じていることに気づかなければならない。
 
ここで、一篇の詩を引用する。「春」と題された、安西冬衛の一行詩とも呼ばれる作品だ。アートとしての詩に「意味」を求めてはならず、本来なら「解説」や「解釈」という無粋なこともすべきではないことがよくわかる名作である。 
           春
                  安西冬衛
  てふてふが一匹 韃靼海峡を 渡つて行つた

 古今東西、多くの詩人が数々の名詩を詠んできた。しかし私は、この詩以上に力強くイマジネーションを喚起してくれる作品を知らない。発表直後には当時の詩壇から「こんなものは詩ではない」と激しく批判されたものの、ほどなくして現代詩に新風をもたらしたと評価されるに至ったのも頷ける。また、この作品に高いアート性を見出した萩原朔太郎は「“てふてふ”は“チョーチョー”と読むべからず」と述べたけれど、音韻的観点からそのまま“てふてふ”と読むべきだという彼の主張にも、私としては大いに頷ける。
 
人によっては「韃靼海峡ってどこよ?」「そもそも蝶は海の上を飛ぶの?」というような問いが先に立つかもしれないが、それもイマジネーションの羽搏きを疎外する。そんなことは後から調べればいいのだ(蝶が海上を飛ぶかどうか調べてわからなければ、アニマンダラ天海ヒロさんに訊くしかないけれどw)。とにもかくにも、アートはそれに接する者が種子として内に取り込んでこそ芽生えて開花し、結実をもたらす。そんな一連のプロセスを駆動するのがイマジネーションだ。したがって当人にとってアート自体の「意味」は、イマジネーションに導かれる一連のプロセス全体にわたって浸透しつつ遍在する、と考えるのが妥当ではないだろうか。
 
さて、安西の詩までもちだして、私はなにをいいたいのだろう?そう、お察しのとおり、ヌーソロジーを前にする私たちには、“詩に臨むスタンス”も求められるのでは?ということだ。ヌースの理解度向上にはイマジネーションの羽搏きが不可欠なことは言わずもがなだが、これは“言うは易く行うに難し”だ。しかし意識的に“詩に臨むスタンス”をとることによって、イマジネーションは確実に力強く羽搏くと私は断言する。遊び人が大勢の方々に向かって断言できることなどなにひとつないけれど、上記は唯一の例外だ。というわけで、本稿ではこの例外的断言をお伝えしようと思った次第。

ヌーソロジーの源泉は、半田さんに伝えられたシリウス言語だ。それは文字テキストなしの音韻でもたらされ、半田さんはたいへんなご苦労とともに日本語テキストに翻訳されたわけだ(ゲンシヨウ?現象ですか?というやりとりから最終的に“元止揚”に至るまでのプロセスを考えただけでも目が眩む)。だからヌースは聴覚訴求要素を基盤にもつという意味において詩的な側面を有するけれど、もちろん韻文でも詩そのものでもない。あくまで散文ベースで記され、そして語られる大系なのだ。そうである以上、「意味」の伝達とその把握は必須。したがって様々な要素の「意味」はどんどん問われて然るべきだが、その一方、まずは各要素を種子として内に取り込んで収容し、イマジネーションに委ねるという営為が必要な面もあるよね?というのが私の率直な思いだ。以前からそんな気はしていたけれど、前稿で報告した我が内的体験、すなわちヌースが「本来的哲学の“場(コーラ=khôra)”」であると同時に「知のアート(= art of insight)」でもあるという認識によって、それがいっそう強化されたのである。

じつはその本来的哲学の場/知のアートの二刀流イメージは、川瀬統心さんがよく用いられる逆家系図(↓)の概念を機にもたらされたもの。

この動画で説明される逆三角形のアンカー部分に記された「わたし」を「ヌーソロジー」に置き換えると、あーら不思議(笑)、三角形の全体がキャンバス的な場であると同時に、その上に描かれるアート作品でもあるというイメージが生じたのである。そしてこの場/アートには、人類発祥以来の無数の先人、先哲の叡智とともに、ヌーソロジーがこれまで辿ってきた道筋と現在刻みつつある軌跡が畳み込まれていると同時に現前しつつある様相が示されている・・・・・・ということになろうか。この逆家系図はさらに、私たちがいままさにアンカー部の最先端にいることを強く認識させてくれもしたのだった。
 
さて、本稿はここで締めることとするが、願わくば、スピナーズのみなさんのイマジネーションがそれこそ“てふてふ”の翅のように羽搏き続けんことを!
 
※ご参考:以下二点の画像はチャットGPTではなく(笑)、若き女性フォトアーティストの作品です(許諾取得済み)。

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