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ハッピーエンドしか書けない。

今年に入ってから、私の書いた短編を読んだ人に、あなたはハッピーエンドが書ける人だ、と言われた。
ハッピーエンドをえがこうとすれば、その幸福を強く印象付ける為にも、展開に緩急を持たせる為にも、その前の段階で悲劇や不幸、なにかつらく悲しいこと、強い負の感情を描くのがひとつのセオリーである。けれども、例えば5000字という制限の中で短編を書こうとすると、その不幸を収束させ幸福に転じさせるだけの尺が足りなくなってしまう。
たまたま私の大学には、5000字前後を基本とした短編を持ち寄り批評しあう、という場があって、私は2年生になってからそのコミュニティに所属しているのだが、そんな訳でそのコミュニティで発表される作品は、ハッピーエンドが極端に少ない。その中で無知の私は、初めての発表から2作続けてハッピーエンドの短編を持っていったら、教授には2度ともコテンパンに「事件性が無い」「緩急がない」と言われてしまった。それを聞きながらシュンとしていた時に、ある4年生に言われたひとことが、「あなたはハッピーエンドをかける人だ」だった。

17,8歳の頃、どうにもこうにも生きづらくてたまらなかった時、Instagramのキャプションに心情を吐露するような文章が増えてきた。それが次第に長くなってきて、Instagramでは荷が重くなってブログを始めたのだけれど(noteを使い始める前は〇てなブログを使っていたと思う、消したけど)、文章を書くことが日常化してきた私が「書く」という作業に求めていたのは、自己療養 であったと思う。

私は幼い頃から、本を読むことだけは大好きだった。文字を読めるようになってから、もうずっと、本が好きなことだけは変わらない。
どんなに退屈していても、あるいは現実が辛くても、さみしくても、悲しくても、本の世界に入り込んでしまえば、それらを忘れることが出来た。物語の中でどんな悲劇が起ころうと、主人公はいつも私じゃない、私じゃないから、きっとそれを乗り越えてくれる、そう強く信じていられた。私は、主人公のように強くは無いんだけれど。1冊読み終える度に間髪入れずに次の1冊を手に取る、幼くてつまらなくて下らない私を忘れていたくて、中学生の頃の私は教室ではほとんど本を読んでいた。気が付けば本を読むことは自己療養の一環で、つまらない私への慰めになっていた。

そんな私が筆をとった時。やっぱり、求めたのは自己療養だったという訳だ。
それが私個人の心情の吐露であろうと、短い物語であろうと、根底にあるのが救われたいという思いであることに変わりはない。つまらない私が、このままならない生活の中で日々求めているもの、人と繋がり生きた感覚を共有すること、誰かに認められること、必要とされること。そういうことばかりを書いている。褒めてくれた4年生は、救われることを祈りながら書いた私の文章を読んで、「結末に妥協しない人」だなんて、それはそれは褒めてくれたけど、妥協しなかった結果がハッピーエンドだったのではなくて、救われる結末でないと私がつらくて悲しくて仕方がないのだ。それだけなのだ。

幻想のハッピーエンドは、あくまで幻想でしかない。
生きた感覚が最も光るのは、本当に追い詰められたその瞬間であると思う。悲しくてつらくて死にたくて逃げたくて遣る瀬無くて情けなくて卑怯で、そんな瞬間にも生きようとしている人。
負の感情を、それをみつめることが出来ないままでは、私は前に進めないと思っている。逃げずに対峙すること、バッドエンドは日常の隣り合わせにそこにある。
バッドエンドのコンマ数秒前、きたなくても格好悪くてもボロボロでも、渾身の力でそれをひっくり返すような、本当のハッピーエンドが書けるようになりたい。
ふんわりとした幻想だけで出来た しあわせ ではなく。本当の幸せを。

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