入院生活
こんにちは。
前回までの記事に反応してくださった方がいらして励みになりました。本当にありがとうございます。つたない文章ですが、綴っていきます。
ブログを書くのは数年ぶりのことなのですが、やはり形にすることで自分の思考を客観視できてとてもよいです。自分の言葉に励まされることもあるのですね。ノートに日記を書くことはよくしていたのですが、字を書くのがあまり得意ではないのと、読み返すのが少しめんどくさくて、思考の整理のみに活用しています。思考のスピードと文を書くのが追いつかないんですよね。。途中から、もういいや!!となってしまいます。
その点パソコンは書き上がったものの編集もしやすくてありがたいです。
今はiMacの21.5インチで書いています。実はこのパソコン、近所の方からいただいたものです。集落文化の根強い地方に移住して、近所付き合いがありがたく心強く思っていますが、パソコンまでとは思わなかったです。野菜やお菓子などはいただいたりお裾分けしたりはあるものの。。不思議なご縁もあるものだなあと思います。
さて、ここからは中学時代のことを書いていきたいと思います。
前回の記事で書いた通り、入学直後の交通事故がきっかけで緊張の糸がプツンと切れてしまい、中1の夏休み明けから不登校になってしまいます。
でも、その前から徐々に学校に行く気力は無くなっていました。姉は小学校高学年から不登校、昔から体格差があり、喧嘩の時はかなり激しめの暴力を受けていましたが、だんだん過激になります。母も数週間寝たきりのことも多くなり、小学校から帰ったら家事が待っていました。休日は姉と大掛かりな掃除もしました。料理は好きだったし、家事はそこまで苦ではなかったのですが、母の暴言が心を削っていきました。
「あんたなんて産まなければよかった」
小学生の時に聞いたこれはやはり辛いものでした。母の気分が落ちるとこんな言葉が出てきます。とにかく迫力がすごい。頭に血が昇ると外でも構いません。辛いのが、仲のいい友達のことを悪く言うこと。友達の家に行くのもダメだと言われることが多かったです。父の悪口もことあるごとに聞かされました。幼少期から聞いていたので、どんな極悪人なんだろうと。母の機嫌が悪いと「パパそっくり」と嫌悪感たっぷりの表情で言われました。父のことは、思わないようにしました。自分には元々いなかったんだと思い込ませました。父に会いたいなんて、口が裂けても言えなかったし、そう思うこと事態が悪なんだと思っていました。
話を戻します。学校に行けなくなってからは、昼夜逆転生活が始まります。前回の記事に書いたように自傷行為が段々とエスカレートして、半強制的に入院との診断が下されました。
病棟は「開放病棟」「閉鎖病棟」「隔離病棟」とその患者の状態によって入る場所が変わってきます。
私は閉鎖病棟でした。個室で、病棟には鍵がかけられ、病棟の外に自由に出入りできないようになっています。出るときは許可が必要でした。
当時のことで、詳細に思い出せる出来事はいくつかあって、ひとつは同世代の中のいい友達が4人できて病棟内で遊んだことです。みんなそれぞれの理由でここにいました。一人の子に、「なんで首に傷があるの?」と聞かれて返答に困ったことを覚えています。
一人の子は、児童養護施設からきていました。腕にびっしりと傷がありました。笑顔がとても魅力的な子でした。その子から悪い遊びを教えてもらったと思います。
もう一人の子は、お人形のように可愛くて華奢で洋服のセンスがいい子でした。目がくりくりで、声はか細く、優しい子でした。
もう一人の子は、豪快に笑う明るい女の子でした。なぜここにきたのかは今でも知りません。
このデコボコの4人は自分たちを「閉鎖ガールズ」と名付けて、食事も廊下に机を出して一緒にとっていました。退院して数年後、看護師さんに当時の話をしているなかわかったことは、この4人がいた時期を今でも「◯◯病棟の伝説」と呼んでいることです。
いろんなことを抱えていつつも、楽しいときでした。
自分がどんな状況に置かれているか、これからどうして行くべきなのかなんて考えられなかったんだと思います。
一人、また一人と退院していき、私だけが残りました。
どのタイミングだったのかは覚えていませんが、一度退院しました。母によると、お金がなかったから。確かに、本当にお金がかかったんだと思います。入院資金は祖父母が出してくれていました。感謝しかないです。
退院後、家の状況がよくなっていたかというと、そう言うわけではありませんでした。嫌な話ですが、家の駐車場で泣きながら腕を切っていました。たまらず病院に電話しました。そんなことが思い出せます。逃げ場が、心安らげる場所がどこにもなかった。
実家が山奥で、近所付き合いがなかったこと(あってもうまくはいってなかったと思います。周囲の工場の人とも険悪だったので)や、図書館やファミレスなど、中学生が無料や安価で長時間いられる場所がなかったことも追い詰められた原因の一つだったのかもしれません。小学生の時の友人とは、不登校になってしまったショックから、一切の連絡を絶っていました。結局、家にいるしかなかった。
次の診察で、強制入院となりました。今度は県がお金を出してくれることになりました(確か)。主治医や精神保健福祉士(ケースワーカー)さんたちがいろいろと動いてくれていたんだと思います。そこから中学卒業まで、入院生活でした。病院内にも学校があったのですが、通うことはできませんでした。
中学卒業間近、主治医からこんな提案がありました。
「里親家庭に行かないか」
里親家庭がどんなものかは理解していませんでした。
児童養護施設の選択肢もあったそうですが、どこもいっぱいで受け入れ先がなかったといいます。受け入れてくれそうな里親さんがいるから、会ってみないかと。
実家に帰りたくない。という思いと、里親家庭に行く選択は母を裏切るのではないか、と言う恐怖と、そんな気持ちがぐちゃぐちゃでした。
でも「はい」と答えていたような気がします。
里親さん達と病院で初めてあったときのことも思い出せます。どんな話をしたのかは思い出せませんが、、。病院の人が、なるべくおしとやかに見えるようにと服を選んでくれました。
、、と、今回はここまでにします。
入院生活は退屈ながらも、優しい看護師さんに助けられ、割と心穏やかに過ごせたと思います。当時のことを綴るのは初めてのことなので整理できていないことも多いですし、まだまだ思い出せるエピソードもあるので、別の記事で紹介できたらと思います。
では、また次回も読んでいただけたら嬉しいです。
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