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100年前のみかん山

9月22日、忽那諸島・中島に暮らし始めて10日目でした。道端に彼岸花が咲きました。今日は朝から曇り空だなと思っていたら、9時頃から突然大雨が降り始め、1時間ぐらいするとあっという間に止みました。そのあとは蒸し蒸しと暑い1日になりました。

午前中は農音の事務所で作業をしました。ついついおしゃべりに花が咲いてしまいます。お昼にあゆみさんがすだちのお素麺を作ってくださいました。すだちの青々とした香りがとても美味しかったです。

午後からは引き続き、森さんの畑のお手伝いに。ただ、今日は、今まで行ったことのなかった、山の奥の方にある、中島でも一番高いところにある畑に行きました。

軽トラックに乗せていただいて農道を登っていったのですが、こんなに上のほうの畑を開いたのって、いつ頃なんだろう、やっぱり機械とか車が充実してからかな?と思い、「この辺りの畑は比較的最近ひらいたんですか?」とお聞きすると、森さんから「いや、僕らのおじいさんとかその世代が開いたんよ。もっと上の方までほんとは畑やったんよ。」とのお答えが。思わずびっくりして、「こんなに上のほう、おじいさんの世代だったら機械とか車だってあまりなかった時代なのに、すごいです…」と言うと、「そうやね、毎日畑に歩いて上がるときに、ついでに瓦を一枚ずつ持って行って倉庫作ったりしよったみたいよ」と。

森さんご夫婦は50-60代で、そのご両親が80代、さらにそのご両親(森さんから見ておじいさん世代)は、生きておられたら100-110歳代でしょうか。つまり、100年ほど前に島に生きた人たちが、気の遠くなるような労力をかけて山の上のほうを開いて、みかんを植えていって、今日の景観の原型ができていった、ということになるのかなと思います。

100年前というと、第1次世界大戦があった頃か…とその当時のさらに広い背景も含めて想像が広がります。

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さらに、この辺りの畑は、3年前の豪雨で深刻な被害を受けた区域だそうで、当時は、森さんの畑の一部も土砂で埋まってしまったそうです。森さんのお隣の畑も、豪雨での土砂災害を機に、この区域にあるみかん畑はやめてしまったんだそうで、もとはみかん畑だったその場所は、3年の月日を経て、緑に飲まれていました。


平成3年の台風のことや、3年前の豪雨のことは、森さんご夫婦のお話しにもよく出てきて、この2つの災害は、島の人たちの生活と生業であるみかん畑にたくさんの被害と影響を与えたんだなと感じます。災害を経ながら、今もみかん畑として維持されている畑、災害を経て、今は自然にかえっていった畑、中島の山にはいろいろな足跡と背景が刻まれていることを知ると、今こうやって、初心者ながらもお手伝いさせていただけて、恐れ多くもありがたいなと感じます。

慣れない農作業が続いてへとへとになっていましたが、明日もがんばろう、と思えました。

しかも夜に、田中さんとあゆみさんがつりたてのイカをたくさんと、無花果のケーキを届けてくださいました…!島にまつわる美味しいものを食べて、明日も援農にいってきます。

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