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深さが足りない

起き抜けにボーっとTwitterを眺めてたら#好きな小説10選 が目につく。
あー、私ならなにを上げるかなぁ、なに縛りで出す?
なんぞ変に楽しくなりながらみんなの投稿をみる。

あー、わかるわぁ。ほー、これあげるんや。
お、この人、私と似たパターンだな。どんな人なんかなぁ。
そんなこんなで1時間も眺めてしまった・・・

音楽の好みも凝視してしまうが、本の方がもっとその人の思考や嗜好の変遷がみてとれて背徳感満載である。なんというか覗き見感がすごい(実際なにかを覗き見したことはない。いや、あるんかな。こっそりなにかを覗いたこと。うーん。こっそり覗くって悪いこと感があって覚えてないな。あ、子どもの頃に日本昔ばなしの真似をしてなめた指で障子に穴をあけて部屋を覗いてみたことはある。いつもの部屋が見えただけやけど。)

そして、自分の10選もあげてみようかと考え始めた。悩む。

悩みポイントは2つ。
1.スカートの下になにも履いていないようなスカスカ感。なにかが垣間見えてしまいそうな、あの感じ(どの感じ?)
2.ものすごい影響を受けているけどフレーズも何にも覚えていない!

どっちのポイントもスカスカ感だ・・・

1.のポイントは私が今まで培ってきた、育ててきた世界観を見られたくない秘密主義、と大した事ない自分を見られる恐ろしさ、が混在している。

あまりにも自分への期待値や理想が高すぎて事実としてある自分を表現できないことも多い。(そろそろ諦めろ)
等身大の自分でとかなんとか耳障りのいいセリフが蔓延してるけど、そんなことは百も承知でもがいている。そんな簡単に「ありのままで」さらけ出して生きられたらすごいことだ(私の年代の時代感・文化・土壌では、まだまだ難しいと考えている)。
「ただ知っている」のと「肚落ちして行動パターンまで落とし込めている」のは違う。

2.のポイントは、ほんとにほんとに子どもの頃からの悩みだ。結構な読書量だったり知識量であったりするけど深さがでない!(と自分が思っている) 

読書感想文や絵日記が苦手だった。大人になって心理学や脳科学、自分の扱い方を勉強するようになって少し解消されているところもあるけれど本質は変わっていない。
「面白かったです!」「楽しかったです!」「悲しかったです!」
の中が書けない、話せない。
どこが面白いと思ったのか、何を楽しいと思ったのか、悲しみをどこで感じたのか。思考プロセスをたどれない。今、こんな気持ちになった!とか感情をとらえるポイントを逃している。(これはトレーニングの問題ではある)

読書感想文が上手な子の作品を読んでいると「このとき主人公はこう考えているけど、私だったら〇〇と考えて行動したと思う」という自分との違いとか「こういう場面に感動した」とかポイントを押さえて書いてある。
毎回、感想文や作文発表の際に聞いていて落ち込んでいた記憶がある。
さて、自分はというとそんなんわからん!全体の空気が好きだった!ものすごく面白い作品だった!けど何をどう面白いと思ったのかが「わからない」。面白いの種類がそれぞれ違うのはわかる。小説の場合は圧倒的なスピードで駆け抜けてしまって文字が心で映像化されていくのに任せている。実体験の時はというと、場面とリンクする感情をとらえられていない。

今はね、こういうこともわかって都度都度メモをしたり記憶にとどめるように意識したりしているけど、根本は苦手であるのは間違いない。

深さを渇望するのは、「面白い」と感じたトリガーを見逃して探究ができていないからだ。そして、自分の感情が動いた心の襞がわかっているのにそれを表現できるまでに探究をしていないからだ。

感情が動いたトリガーを見逃すな。
そして掴んだトリガーを探究しろ。
めくるめく世界の始まりだ。

とりあえず、なにも覚えてないけど
私の人生に深くかかわっている小説10選をあげることにしよう。

最後に。
好きなものを表に出すというのは、自分の推しをさらして応援するオタクと鬱々とグフグフと自分だけの楽しみとして抱えているオタクとのせめぎあいでもある。その基準は探究できていないが出すもの出さぬものの切り分けが存在している。




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