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千利休は茶人の身で、なぜ切腹?

TVのCMで伊江門の中で、石臼を挽いて茶の湯を点てるシーンがある。
若い時期、親友のお父さんが茶の湯の大家で、遊びに行くと、茶の湯を点ててくれた。普段はサラリーマンなのだが、和服を着るとビシッとして格好よかった。アンバランスに感じたのはその父上は神奈川県二宮の海辺の大きな教会で教会長を務めるクリスチャンでもあった。
その方に、笑われながらも・・・・申し上げた事が有った。
日本の歴史で一番古いインスタントの飲み物は、抹茶だ!と。
そして、棗と石臼と碾茶について、教えていただいた。
その昔、茶の湯は、石臼で挽いてから、点てたそうだ。
その時点で素晴らしい香りが・・・。
利休の時に、その歴史が途絶え、大阪商人が漆の高級な棗に抹茶を入れて、茶の湯に使う事を広めたらしい。
茶の湯に使う石臼は精巧で、抹茶はたしか?0.03ミクロンで粉末として出てくる。この辺りの事は、東大の粒体力学(流体ではない)の三輪先生が「砂の秘密・粉の謎」という、とても面白い本の中で書いている。
で、茶の湯の先生曰く、歴史というのは表には出てこない。
何故、利休は切腹を命ぜられたのか?利休は大阪堺の商人で朝鮮に渡って商いをしている。茶の湯は中国~朝鮮から石臼と共に伝わった。
秀吉は利休に命じて石臼を破壊させているが、朝鮮のものも破壊させたといわれている。
利休は茶の湯の茶道具で巨万の富を得ていたといわれている。
石臼が壊された事は利休の死に一番納得させられる内容だ。
斬首され、死体がさらされた事でも、秀吉の怒りが解かる。
秀吉は0.03ミクロンの粉が出来る事を恐れたのです。
農家の使う蕎麦や粉を挽くものはその対象にはしなかった。
私も答えは簡単には書かない。歴史は謎めいている事が面白い。
石臼で秀吉を窮地に陥れる事を利休が考えていたとすれば、
納得です。
さて、歴史の真実は表には出て来ないという事で・・・・。
歴史の表では、利休は秀吉との茶の湯をめぐる確執によって、関係が悪化して、切腹を命じられたとされている。
利休は信長とも関係が深く、本能寺の変の時も、大規模な茶会の席だった。秀吉はその時に、自分の大切な茶道具を焼失している。
利休といえば、その頃から自分が見立てた茶器を利休が評価しただけで、高額な取引がなされ、巨万の富を得ていた。
今では考えられないほど高額で、茶器によっては一国一城の全財産に匹敵するほどの額だったとも言われている。
信長も秀吉も利休を重用していたし、茶の湯で最高位の利休は、謙虚で表向き控えめではあっても多大な権力者であった。
秀吉は派手好みの茶の湯で、黄金の茶室を見ても、その派手さはハンパでない事が判る。熱海のMOA美術館に黄金の茶室が展示されているので、一度、ご覧になる事をお薦めします。
黄金の釜といい、金箔の天井と壁、全てが金と朱赤の茶室は見ている者を圧倒するパワーを感じます。
利休の侘び寂の、木質と黒の世界とは相容れない真反対の感性です。
利休は堺の貿易商の大商人の顔も持っていた。
信長は堺を直轄統治し、鉄砲を大量に輸入していた。
利休はどうも、秘密裏に大量の鉄砲と組織を裏で持っていたようです。
問題は火薬です。
火薬を輸入すると言うの、とても管理が難しかった。
船ですから、湿度の管理です。一度湿ってしまうと乾かす事も危険で難しい。国内で製造するのが得策だったようです。
当時は黒色火薬で、製造するには、原料の硫黄、木炭、硝石が必要でした。
(火縄銃で使う黒色火薬は、硝石75%、木炭15%、硫黄10%)
この材料の中で硝石だけは輸入するしかなかった。
これらの材料を、茶の湯で使う、石臼で挽いて粉にし火薬を作ったとされている。
秀吉は利休を堺に蟄居させたあと、理由をつけて切腹させた。
その隠された真の理由は、利休は危険な武器商人であり、地方の権力のある人達とも茶の湯を通して師弟関係に有り、政治的な影響力と武器商人で大変危険な存在であったと言う事だ。
それに、気付き、石臼破壊令を出して、火薬の製造を止めさせた事でも秀吉の心情が理解できる。
利休に関しては徳川家もその政治的影響力を危険視していたことは、利休の死後、徳川の茶の湯の指南役、織部に対する扱いにも見ることができる。織部も徳川によって切腹を命じられた。
たかが石臼!石臼=ミルは観るに通ず!な~んちゃって!
 

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