最後に湧き上がってきた気持ち

先週、元夫のお母さんが亡くなられた。
以前から体調が思わしくなく、ここ数年は病院をぐるぐると入院、転院しながら過ごされていたようだ。

どうしていらっしゃるかなと思いつつ、もう身内ではないからわざわざ元夫に様子を聞くのもな、と思っていた。

元夫はコミュニケーションにもともと少し(いや、多分に)問題がある人だ。仕事上必要なやり取りはもちろん問題なくできるのだが、プライベートでのやり取りでは『阿吽の呼吸』を求めるというか、忖度してくれというか、とにかく自分の思いをきちんと伝えてこない。

結婚生活中もそうだったが、別れてからは貝のようだった。

養育費を振り込んでくれたことに対し『ありがとうございました』と私はメールを毎回していたのだが、それに対してただの一度も返信があったこともなければ、子供たちの近況を尋ねてきたこともなかった。

子供たちの卒業や入学におめでとうの言葉もなかった。入学式の様子など動画を送ったこともあるが壁に向かって話してるようだった。

男というのはそういうものなのかもしれないが。

私との間ではいろいろとわだかまりがあるので、丁寧なコミュニケーションは必要と考えてないのだろうと思う。向こうは私が煩わしく、完全無視を貫いただけかもしれない。

そんな元夫が、『母が亡くなりました』とメールしてきたのが先週。

もう身内ではないとはいえ、子供たちが幼い頃などはお母さんには大変お世話になった。子供たちにとってはおばあちゃんであることは変わりないので訃報は伝えた。

息子は今群馬にいるのだが、忌引きが取れるというので告別式に参列すると言う。

さて、私。

元夫は再婚していて家族がいる。そんなところにのこのこ元妻が行っていいものか、立場的にかなり微妙な気がするので躊躇っていた。また転職したばかりで有給休暇が少ないことも躊躇する一因になっていた。

けれどやはり最後、お別れを言いに行きたい。

参列していいかを元夫に尋ねたところ、『無理してもらってすみません』と返信が。
『いいですよ、どうぞ』ではないけれどこれは参列許可だ。

当日は息子と二人で告別式に参列した。元夫もその兄弟も至って普通に私たちを迎えてくれた。

そしてお母さんは綺麗にお化粧されて棺の中で眠っておられた。控えめで優しく、気遣いの出来る、そして芯のある人だった。
生前のお母さんの声や姿が思い出された。その顔はいつも笑っていた。

私たちがかつて夫婦だった頃、いろいろ口に出せない思いもあったことだろう。元夫は子供の世話が全く出来ない人なので、子供が熱を出したときは(夫が子供の面倒を見るために仕事を休む時は)彼が自分の実家に子供を連れて行ってしまう。つまりお母さんが子供の面倒を見てくれていたのだ。

そんなお母さんのあれこれが思い出され、そのお母さんが逝ってしまわれたことが寂しく、目頭を押さえても涙がこぼれた。
そんなお母さんへの言葉は

ありがとうございました。

何度も何度もお母さんに(心の中で)「ありがとうございました」と繰り返し言った。思い返せばしていただいたことばかりだったな、と。

読経が終わった後、棺にお花を手向けたのだけど、図々しくも何度も花をお棺の中で眠るお母さんのそばに置いた。本当は一度でいいんだろうけど(そして私も最初はそのつもりだったけど)斎場の方が「どうぞどうぞ」と言うのをいいことに、何度も何度もいろんな種類の花を手に取りお母さんのそばに置いた。

お母さんは花に埋もれてとても安らかで綺麗だった。

元嫁という立場だったので参列を悩んだけど、最後ご挨拶ができて本当に良かった。終わり良ければ全てよしというが、いい形でお母さんとお別れが出来た。
また元夫に対しては今となっては(私は)何のわだかまりもない。
離婚から何年経っても元夫のことを思うたび怒りが湧いてきたものだったけれど、もうそんなことはどうでもいい。こうして穏やかな気持ちになったのもお母さんのお陰かもしれない。




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