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母と娘に戻るまでの20年

1. 母は変わり者

日曜、雨、15:00。

シトシト降る雨で薄暗い空は、時間の感覚を失わせる。

母からの突然の電話で、マンションのエントランスまで降りていった。

夕飯にと、すき焼きを持ってきてくれたのだ。

友達と予定があるとかで、母はすき焼きの入った袋を乱暴に渡して「じゃぁねー」と帰っていった。

「やっぱり持ってきたか」

実は朝母から電話があったのだ。電話の目的は、母が、町内会のお局様に一言言ってやったという、武勇伝を語るためのものだった。

興奮気味に一通り話した後、急に「夕飯作って持ってこうか??」と聞いてきた。

「雨降ってるし、持ってくるの大変だからいらないよ」

母は「了解」と答えた。

しかし、私は80%持ってくるだろうなと思っていた。

「いらない」というと、持ってくるのだ。

厄介なのは、この確率は100%ではないことだ。

母は、変わり者だ。ひねくれ者で素直じゃない。

右と言われれば左に行き、左じゃないとわかると「私は本当は右と思ってたんだ」とキレるような人だ。

母の「了解」は「了解してない」だし

母の「右」は「左」なのだ。

2.母が母でなくなった瞬間

私が高一の時父は病気で亡くなった。私の実家は商売をしているのだが、父亡き後も母は店を守り、私を私立の大学にまで入れてくれた。

母は、私が知る限り1番強い人だ。

それ故に、私はずっと母が理解できなかった。

父が亡くなったのは高1の春のことだ。

出棺の時、泣いている私に母は言った

「お父さんの娘なら泣くんじゃない。いい?今日から私とあなたは一人の女と女だからね」

私が、両親を失くした瞬間だった。

なぜ、泣いてる私を慰めてくれなかったのだろう。

その台詞を、あの瞬間に言う必要があったのか?

ずっと、その意味がわからなかった。

心のどこかで母を理解できず、甘えきれず、頼りきれずにいた。

心のどこかで、私を理解してくれない母をずっと責めていた。

3.あれから20年

父が亡くなってから20年が経った。

私は、結婚して二人の子供を持つ母になった。

今、私は、あの瞬間の、母のあの時の言葉の意味を私なりに理解できるようになった。

母は、「辛い」と言えなかったのだろう。

私は、父を失って、母に支えてもらうことばかりを考えていた。

でも、母は、誰に支えてもらっていたのだろう?これから一人で子供を二人育て、店をやっていく。どれほど怖かったろう。何より夫を失う悲しみはどれほど辛いものだったのだろう。

あの時1番辛かったのは母だったのだ。

あの言葉は「辛い。これからどうしよう。助けて」と、本当は隣にいる娘に、そう言いたかったんじゃないかと、母なりのSOSだったことに、20年経って気がついた。

昨年、記憶にある限り生まれて初めて、母の誕生日を私の子供達とお祝いした。

その時母は言った

「20年前お父さんが病気の時、最悪な誕生日だと思った。でもその時の私に言ってあげたい。20年後はこんなに幸せな誕生日が待っているって」と

私は「頑張ったね」と母の背中をさすった。

この時、私ははじめて母を許せた気が、理解できた気がした。

それでも母は変わらず、やっぱり強いし、変わり者だ。

60代後半になっても、自分の息子よりずっと若い若手芸人にスパチャしたいとやり方を調べている。

人の話は聞かないし、いつも誰かの文句を言っている。

そして、毎日一生懸命働いている。毎日、毎日、笑顔で店頭に立っている。


4.母と娘

いらないといったはずの夕飯を作ってきた母を見送り、手渡された袋を覗いた。

すき焼きと言っていたが、お漬物と、ほうれん草の和え物も入っていた。

私と子供二人ではとても食べきれない量で、明日まで何も作らなくて済みそうな程だった。

自分のを作ったついでのお裾分けという量ではなかった。私のために作ってくれたのだろう。

母なりに、親一人で子供2人と土日を過ごしている娘を心配してくれたのだろう。

降り続く雨が止む気配はない。その雨のせいか、足元に赤い葉っぱが沢山落ちていた。

冬なのに、赤い葉?昼間なのに暗い?いらないって言ったのに持ってくる?

ちぐはぐなその光景が、なんだか愛おしくて、私の胸を暖かくした。

まだ、夕飯には早い時間だった。でも、母の夕飯が楽しみで、部屋に戻るとタッパーを開け、一口食べた。

私達は、「一人の女と女」を終え、「母と娘」に戻ったのだろう。







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