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母性ってなんだろう〜ポケットにどんぐり、足元にこめつぶ

娘が8歳、息子がもうすぐ4歳になる。

母親歴はたった8年、まだ一桁ということに驚く。

この8年はなんとも濃い時間だったな。

ママになって世界は変わった。

それまで私は私だけの為に生きてきた。

一緒にいる人も選べた。

私の、人に知られたくないよう心のうちを誰かに見透かされそうになったら、最悪その人から逃げればよかった。避ければよかった。

でも、子供はそういうわけにはいかない。

母になって、自分の本質を突き付けられる瞬間が増えた気がする。

自分はこんな人間だったのかと。

それを消化できないまま日々は過ぎていくから、時々どうしようもなくなって意味なく泣いた。

自分に母性が足りない気がしていた。

子供が生まれた瞬間泣けなかった。どうやらこの場面では泣くらしいと聞いてたいのだが、涙はでなかった。

母乳を上げる時も、めんどくさいなと思ったこともあった。

保育園に預けるとき、やったぁと思った。

子供が熱を出して、仕事を休まなければならない時はがっかりした。

「あなたのせいで」

喉元まで出かかった言葉を飲み込んだこともある。

子供が生まれて数年は、とにかくイライラしていた。

そして、私は、私の母性というものをいつも疑っていた。

どれもこれも、私に母性が足りないからなんじゃないか。

SNSに映し出されるキラキラした親子を見ては、目の前にいるこの子は私みたいな親で可哀想だなと思って泣けた。いや、こんな親になれない自分の不甲斐なさに泣けた。

でも、今は思う。

生きにくいタイプの私だから、すぐには母親になれなかっただけだと。8年で一歩一歩親という役割の意味に気付いていった。

そして、8年たって思うのは、親なんて結局何もできないということだ。

子供の人生を私の人生と思うから苦しい。

子供と私を同一人格と思うから苦しいのだ。

私と、子供は全く別の人間で、私はただお腹を貸しただけなのだ。

そう思えるようになってからは、「あなたのせいで」と思うことは一回もなくなった。

子供の人生と私の人生は交わっているけど、同じ人生ではないのだから。

今こうして一緒にいられる限られた時間を、私が楽しみたいだけだ。

何もしてあげられないから、してあげられることはしたいと思うだけだ。

母性が何かはわからない。もしかしたら、その量が私には足りてないのかもしれない。

でも、それがなんだ。

時にうまくいかず、投げ出したい時がきても、そこに戻りたい、ここにいたいと思うのは、子供達を愛しているからだった。

子供達は私の人生を豊かにしてくれた。

日々子供達が気づかせてくれる自分の本質は、時として、

「私なんてこんなもんなんだ」と「私は意外とこんなことができるのか」と、

一人では気づけない自分に気づかせてくれた。分厚くて硬いプライドや見得を根こそぎはぎとってくれた。

それは、私を生きやすさに導いてくれるものだった。

子供達が生まれてきてくれた、ただそこにいる、それだけで感謝なのだ。

**

幼稚園の帰り道、寒さのあまり、自分のコートのポケットに手をいれた。

そこには、どんぐりが入っていた。

どんぐりの中には、白いうにょうにょした虫がいることがあるらしい。

以前息子がその虫をみつけて、しばらく虫かごに土をいれて飼っていた。

私はポケットからでてきたどんぐりを軽く揺すった。自分の人生で、どんぐりをみて、そこに命を感じるようになるなんて思わなかった。

そして、息子はいったいいつ、このどんぐりをポッケに入れたのだろう。

私に気付かれないように入れたのか、私が預かったのか、、、

全く思い出せない。

どっちにしても、一つのどんぐりで、息子の何通りもの姿が想像できた。どの姿も可愛くて、にやけてしまう。

息子に「どんぐり入ってた」と伝える。

私はしゃがんで息子に目線を合わせ、どんぐりを差し出した。

「あ、ママ。何かついてる」

息子が私の足元を指した。

私のジーパンの裾には、信じられないくらいの量の米粒が、すしのシャリくらいの塊になって付いていた。

「僕が朝たべたおにぎり落としちゃったやつじゃない?」

息子は、どんぐりを奪い歩き出した。

今、午後4時である。

この姿で、私は一日過ごしていたのか。

どんぐりを見つめてニヤつきながら、足元に米粒の塊がついている私。

私は母になったのだ。

私が自分の母性を感じた瞬間だった。

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