見出し画像

あれ?その企画スベってない?

「ポツンと一軒家」「緊急SOS!池の水ぜんぶ抜く大作戦」「痛快TVスカッとジャパン」みたいな新しい座組の番組を作りたい...!

私が今年参加している #言葉の企画 第2回のテーマは『テレビの企画』

コロナ自粛中に偶然リアルタイムで見かけてどハマりした、「あざとくて何が悪いの?」のプロデューサー兼演出の芦田さんからのお題は

フワちゃんorバナナマンをメインに据えた、ゴールデン帯のファミリー向け番組を企画してください。

というもの。

小さい頃からテレビ大好きっ子の私としては、第一感情としては「夢みたい!」その後やってきた感情が「で、テレビの企画ってどうやって考えるの?」

どうせなら、上に挙げた番組のようなありそうでなかった、新しい座組のものを考えたい!そういえば、2019年M-1チャンピオンのミルクボーイはリターン漫才という新しい型を見つけ出し、あの地位に登りつめた。

しかし、この域の企画はもはや世紀の大発明の境地である。刻一刻と締め切りの時間が迫る中、待てど暮らせど、新しい番組の座組は降りてこなかった。藤子不二雄のように、直前でドラえもんが降りてくるほど、現実はそう甘くない。

今回の企画も惨敗だった。テレビの企画を通して、企画とは何かについて今日も探っていきたい。

■「それは企画ではない」

115名分の企画書を目の前にした総評の中で芦田さんが言った言葉。そのまた昔、芦田さんが上司から言われた言葉でもあるとか。多くの企画生の心に突き刺さったであろう。

トークもの・お悩み相談ものetc、ただ話を聞きますというような演者の力に委ねられているだけのものは演出ではない。「(最近あまり見る機会が減ったけど)テレビってこんなんでしょ?」が見透かされた瞬間だったような気がした。仮に今まであった座組だとしても、自分らしい新しい要素を付け加えられるかどうかが大事。そんな当たり前のことをテレビっぽい企画にしなきゃと型に囚われるあまり忘れてしまっていたのかもしれない。

つまり、テレビの企画と言えど、企画の作り方が大きく変わるわけではない。0→1を作るのは大変だし、1→1のままが許されるわけでもない。テレビに関わらずどんな企画であっても、まず「ミッションは何か」を考えることが共通しているのではないだろうか。では、バラエティ番組のミッションとは何か。芦田さんのお話を聞いて、「新しい面白いものを作る」という意気込みを感じた。

そう思ってテレビ欄を見返してみると、0→1の大発明番組は意外と少ないのかもしれない。ほとんどのバラエティにはきっと流れがあるのだろう。

例えば、2000年代頃のお笑いが競技化されていく歴史で考えてみると(https://qjweb.jp/special/8414/)

・1999年『爆笑オンエアバトル』:視聴者の審査により得点上位者だけがオンエアを勝ち取る。
・2001年『M-1グランプリ』:「芸人を辞めるきっかけを与えたい」というミッションの元、出場資格は結成10年以内(現在は15年)で優勝賞金は1000万円。優勝すれば一夜にして人気者に。
・2003年『エンタの神様』:番組独自でキャラクターを作る手法。「一発屋」とも言われる多くのキャラ芸人を排出。
・2005年『ザ・イロモネア』:ランダムに選ばれた観客を、1分の持ち時間内に規定ジャンルに従ったネタで笑わせるチャレンジ。
・2007年『爆笑レッドカーペット』:約1分間でベルトコンベアーのように次々とネタを披露するシステム。「ショートネタ」という新たなトレンドを生む。

確かにどれもネタ見せ番組という土台の元、少しずつ新しい要素が付け加えられ、全く別物の企画に仕上がっている。不思議なことに、2000年代を生きた人なら誰しも共感してもらえると思うが、どの番組もそれぞれカラー(個性)が全く違うのだ。土台が同じでも、世界を少しでも広げられるよう新しい切り口を持って企てていきたい。

ここで、プロモーション活動に立ち戻ってみる。やれYouTuberを起用する。やれアドを回す。起用して終わっているものは企画とは言えない。やめちまえ。そう芦田さんに言われたような気がした。タイアップや広告配信という枠組みの中で、いかにブランド(商材)や起用したインフルエンサーを輝かせる舞台装置を企てることができるか否か、講義を受けてから企画に向き合う姿勢がどこか変わった。

■「自分が面白いと感じたものは普遍的に面白いのか?」

こちらは芦田さんの企画の選定基準の4つのうちの1つだ。自分で面白いと思って出したものがウケない時、スベっていると。まるでそれは、〝飲み会で一人語りをし、面白くもなくスベってる人〟であると。

。。。私だ。なんならスベり散らかしている。関西人としてはあるまじきことだ。芦田さんからの講評の時間、良かった企画に選ばれるのではないかと、バラエティ番組風に言うならば、いつカメラに抜かれてもいいように少しワイプを意識しつつコメントを準備して、必死で祈りまくっていた。蓋を開けたら、全然票が集まっていなかったのにもかかわらずだ。

#言葉の企画 の一連の講義で勉強になるのは、自分が思う面白さに評価が下るというところだ。日常生活の中で笑いへの試行回数は多いものの、フィードバックを受けることはほぼない。こうしてみんなも面白いと思うに違いないと勘違いしてスベってるやつ(しかも本人は気づいていない!)が誕生する。私だ。どうやら、自分が面白いと思うものと、みんなが面白いと思うものは少し違うらしい。昔から変なところで笑う癖があるのだが、人と違う切り口に気づける可能性があるのは◎。そこからどう普遍的に面白い方向に近づけていくのかの力が圧倒的に足りていないと痛感する。企画が面白い人は常に面白いことが多いし、普遍的に面白いことへのチューニング力がカギになりそうだ。

さらにもう少し考えてみる。テレビとYouTubeの決定的な違いは、そもそも普遍的に面白くあるべきかどうか、ということらしい。つけたら嫌でも目に触れてしまうテレビと見たい人だけが集まれば良いというYouTube。求められる役割が違うというのはよく分かる。

ここの企画生たちは主催者の阿部さんの教えに基づき、すぐ辞書を引くという習性がある。早速私も「普遍的」を調べてみる。

普遍的:広く行き渡るさま。極めて多くの物事にあてはまるさま。(大辞泉)

普遍的に面白い必要があるのは、やはりマス性が問われるテレビだからこそだと思う。企画全般に広げて考えるならば、「どれくらいの規模感」の「どんな人たちに」面白いと感じてもらうことがゴールなのかを明らかにするべきなのかもしれない。つまり、面白い人とは、自分が面白いと感じるものを、どれくらいの規模感の人に(数)どれくらい深く刺さるか(質)をコントロールした上で企画できる人なのではないだろうか。

とりあえず、すべり芸を生業とするのだけは避けたいので、バッターボックスに立ちながら、引き続き企画とは何かについて考えていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?