フリッパーズ・ギターと小沢健二とコーネリアス と僕 その① 

 自分なりのフリッパーズ・ギター/小沢健二/コーネリアス論を一度書いてみようと思う。


 僕が小沢健二の楽曲と遭遇したのは、大槻ケンヂがソロアルバム『I STAND HERE FOR YOU』でカバーした「天使たちのシーン」を聴いたのが最初だった。

 大槻ケンヂの表現は全て好きで、カバーに選ぶ曲もだいたい好きだった。『~FOR YOU』の一つ前のソロアルバム『ONLY YOU』でカバーしていた、ばちかぶり、じゃがたら、INUなどの曲はオーケンのルーツといった感じでなるほどと思ったし、後の時代だと、後輩のアーティストである峯田和伸の「BABY BABY」もカバーしてたりして、世代の前後にかかわらずオーケンがシンパシーを感じているものとして納得できるカバー曲ばかりだった。
 ところが、「天使たちのシーン」だけは、最初聴いたとき「なぜこの曲をオーケンが?」と納得できなかった。ほかのオリジナル曲やカバー曲で見られる、世の中のはぐれ者だったり、ひねくれていたり、反骨精神があったりといった”オーケンらしさ”からは相反する曲に思えたからだ。
 特に最後の、〈にぎやかな場所でかかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている〉という歌詞がまるっきり受けつけなかった。賑やかな場所でかかる音楽なんてロクでもないに決まってるじゃん!そんなのに耳を傾けんな!と思った。
 しかし信頼する大槻ケンヂがカバーしているのだから、この曲にも僕の琴線に触れるような文脈があるのかもしれない、と考え、この曲を作った小沢健二のことを詳しく知りたいと思った。当時はマジメだったので、まずはフリッパーズ・ギターから順番に聴いてみようと(フリッパーズの作詞は全て小沢健二であることは知っていた)、ツタヤで1stの『海に行くつもりじゃなかった』から3rd/ラストアルバムの『ヘッド博士の世界塔』まで順番にレンタルして聴いてみた。

 フリッパーズ時代の歌詞を聴いてみると、なるほど確かにこの人はひねくれている!しかも大槻ケンヂのようなわかりやすいヒネ方じゃなく、下手したらもっと厄介な人かもしれない!と思った。
 たとえば 〈ショールで覆う僕の悲しさを わけ知り顔 ピントはずれに なぐさめればいい!〉(「偶然のナイフ・エッジ・カレス」)、〈舌を出す 嘲笑う そんなありふれたスタイル 蹴とばすもの何もありゃしないのにね〉(「ビッグ・バッド・ビンゴ」)、〈シュールな物言いで話そう ゴール目指すなんてやめよう〉(「ゴーイング・ゼロ」)なんて歌詞からは、作詞者のメンドクサさがよく感じ取れた。
 プライドが高くて、他人を見下していて、誰も僕らの繊細な感覚なんかわかってくれやしないと思っている。そのくせ、自分たちのことを、もうすぐ失ってしまう若さを持て余したイキりたい盛りなだけの空っぽな存在だってことも自覚しちゃっていて、外部のことも自分のことも何も信じられないから本当のことなんて何も伝えることがないという諦めもあって、「青春時代ももうすぐ終わってしまって寂しいけど、どうだっていいなあ」という境地の歌ばっかりに聞こえた。
 大槻ケンヂのひねくれ方と違うのは、そんな諦めのスタンスがカッコよさとして成立してしまっているということだ。そしてそんなカッコよく見られていることも、本人たちは心底くだらないと思っているんだろうなあと感じさせる、何重もの屈折があるミュージシャンだ。大槻ケンヂもまた、奇を衒ったことをしておもしろおかしく見られている自分を俯瞰して冷ややかに見てしまうような、複雑な屈折がある。見られ方がファニーな印象かクールな印象かの違いだけで、”大槻ケンヂ的な”表現者たちのあり方とフリッパーズ・ギターは、遠いようで実は近いように思えた。

 フリッパーズは作詞者の小沢健二とメインボーカルの小山田圭吾が一心同体になってるから、主語がつねに”僕ら”というスタンスでいるというのがミソだと思っている。”僕ら”というのは究極的には小沢と小山田2人のことなんだろうけど、聴いている側はなんとなく自分もそこに入っているような感覚を覚える。そして、そんな同胞意識を感じてしまった後は、自分が彼らにとって軽蔑の対象になる他者だという可能性に気づいてしまっても、なんとなく許せてしまう。そこでは、彼らの表現が持つ”かわいげ”という、言語化しにくい繊細なバランスの武器もまた重要なファクターになっている。
 それが小沢健二のソロになると、表現のしかたがガラッと変わる。主語が単数形になると、そういったかわいげや同胞意識といった魔法が効かなくなると考えたのかもしれない。もともと繊細な感性が、一人ぼっちになって、さらに寄る辺ないものになったのかもしれない。諦念をつらぬかせるというやり方はフリッパーズでやり尽くしてしまい、その先に向かわないとどうしようもなかったのかなとも思う。とにかく、小沢健二のソロ1stアルバム『犬は吠えるがキャラバンは進む』(公式略称は『犬』)は、フリッパーズとは打って変わり、とても暗くて、そしてまっすぐだ。

 その暗さはまっすぐ明るさの方へ向かっていこうとするがゆえの暗さだし、そのまっすぐさは屈折を経験したからこそのまっすぐさだ。
 〈もう間違いが無いことや もう隙を見せないやりとりには 嫌気がさしちまった〉(「カウボーイ疾走」)という歌詞からは、フリッパーズ的なやり方への決別のようなものを感じる。
 決別した先に彼が挑戦したやり方とは、言葉に誠実であることだったのだと思う。「ローラースケート・パーク」の〈意味なんてもう何も無いなんて 僕がとばしすぎたジョークさ〉は、おそらくフリッパーズ時代の〈ハイファイないたずらさ きっと意味なんてないさ〉(「ビッグ・バッド・ビンゴ」)へのセルフアンサーだろう。空虚な言葉で戯れるというスタンスはやめて、意味をこめた言葉を届けるために言葉を尽くす。たとえその”意味”にまだたどり着いていないとしても、その自らの不完全さも隠さずに言葉に込める。そうしてできたのがこの『犬は吠えるがキャラバンは進む』というアルバムだ。
 『犬』は収録曲だけでなく、歌詞カードに書かれている長大なセルフ・ライナーノーツもすごい。一部を抜き出すのは忍びないので引用は控えるけど、ここでも言葉を尽くして、自分の心からのメッセージや祈りを届けようとしている。
 そして問題の「天使たちのシーン」である。ライナーノーツでもこの曲が一番重要であることが示されている。〈冷たい夜を過ごす 暖かな火をともそう 暗い道を歩く 明るい光をつけよう〉〈涙流さぬまま 寒い冬を過ごそう 凍えないようにして 本当の扉を開けよう〉の切実さ。衒いや誤魔化しや恥じらいのない、彼が本当に伝えたい事だけを込めた13分半の果てに、〈神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように にぎやかな場所でかかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている〉と結ばれる。”神様”も、”にぎやかな場所でかかりつづける音楽”も、ある種の人にとってはとても信じることができないものだ。そういうスタイルは賢くてカッコいいかもしれない。けれど、信じるに値するものが何も無いとしか思えない人生が、いかに”冷たい夜”で”暗い道”で”寒い冬”であるかをイヤというほどわかってしまった。その絶望から仰ぎ見る景色だからこそ、ここで歌われる現実の情景は眩しくて美しい。その美しさはもしかしたら今の自分には手の届かないものなかもしれないけど、でもいつかは・・・!と、こんな気持ちが歌われているんじゃないかなと理解した。

 こうして小沢健二とフリッパーズ・ギターの魅力にハマり、晴れて「天使たちのシーン」と和解した僕は、世界がグッと拡がった気がした。今までは、世の中にある表現のうち、暗いものやひねくれたものだけが自分の味方になってくれる表現で、希望に満ちあふれたポジティブな表現は、自分に向けられたものではない気がしていた。しかし、そうした表現のうち本当に切実に作られたものは、必ず屈折や絶望が根底にあるのではないかと思うようになった。小沢健二がこれ以降に発表する、『LIFE』や『刹那』の収録曲に代表される”明るい”楽曲群はまさにそれで、以上に書いたような探求を経ていなければ好きになることはなかっただろう。

 一方で、小沢健二と一心同体であった片割れである、コーネリアスこと小山田圭吾の表現活動も、特に彼の”言葉”の使い方において小沢健二とはまた違った意味で興味を引かれるものだった。それについては次回書こうと思う。


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