『のび太の南極カチコチ大冒険』(2017)と反・“子供っぽさ”のゆくえ【映画ドラえもん感想】

2017年公開『映画ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』
2024年2月14日 AmazonPrimeVideoにて鑑賞。 

 公開時に観に行き、そのときは結構良い印象だったはずなんだけど、ストーリーもキャラクターも全然覚えていなかった。
 なぜなんだろうと思いながら観返してみると、確かに悪くない作品だけど、突出して良い作品かと言われるとそうではないと言いたくなるような、個人的にとても微妙な感想を抱く作品だった。

 前年度の『新・日本誕生』で完成形と言っていいほど完璧な作画になったと思っていたが、今回はタッチをまたガラッと変えていた。ザラザラした感じの輪郭線やレトロ風の色調が特徴の、今までになかったような絵柄だ。
 氷や水が大事なアイテムだけあって、今回の作画は物の質感の表現が上手い。リアリティがあるというより、絵本の絵みたいな感触重視の表現になっていた。

 今作で画風以上に特異な作風なのは、その「低温」なトーンだ。文字通りの温度の話じゃなくて、感情表現や演出の盛り上がりが極度なまでに抑えられていて、クールな、あるいは冷たい印象に全体が包まれているのだ。
 まず冒頭、異世界でのゲストキャラの顔見せシークエンスの後、のび太とドラえもんの日常シーンになってからオープニング曲が流れるまでの間、環境音と最低限の効果音以外全く音楽が流れない。ドラミが通話で画面越しに登場する以外は登場人物ものび太とドラえもんの二人だけで、会話もどこか間が多い。シリーズとしては異様に静かな時間が続いて驚いた。
 続くオープニングでは、従来のようにオープニング用の映像が流れるのではなく、画面でストーリーが進んだまま『夢をかなえてドラえもん』が流れる、おそらく今までにない仕様になっている。ここで、非日常の創造を楽しむのび太とドラえもん、および静香・ジャイアン・スネ夫の登場といった場面が、サイレント演出で済まされる。
 ここまででもう、今までのドラえもん映画とは全く違うテンションであることがわかる。

 その後も全編通してこのテンションは続く。
 コメディ要素の入れ方についても他の作品とは一線を画している。のび太のドジで笑わせる場面はほぼ無い。ジャイアンの言い間違いギャグはあるけど、それにいちいちツッコミが入らない。わかりやすいギャグでなく、例えば説明している人物の隣で別のキャラが勝手に遊んでいる、というような、オフビートな笑い。
 また、キャラクターが叫んだり泣いたりする場面もほとんど無い。序盤で、氷漬けにされたドラえもん(の形の何者か)を見つけた一同のリアクションの薄さは異様なほどだ。終盤、のび太が偽物に騙されず本物のドラえもんを信じた際にドラえもんが涙を流す場面が今作の情緒的なピークだが、その場面にしてもドラえもんが喋れない状況にあるという大きな枷によって、声に出してリアクションしないという抑えた演出になっている。

 本作がここまで抑えたテンションなのは、話がシリアスだからというわけでもない。確かに2つの星の命運がかかった話ではあるけど、そういったスケールの物語はドラえもん映画としては珍しくない。ゲストキャラも、それなりに切迫した使命がありつつも楽しく日々を送っているように描かれ、悲しみを背負っていたりもしない。
 おそらく本作のテンションは、今までのドラえもん映画シリーズに度々見られた、過剰な“子供っぽさ”に拒否感を覚える人に向けてのものではないだろうか。
 確かに、特に新シリーズのドラえもん映画は、いかにも「ここが笑いどころ!」という感じのギャグや、大げさに感じる感動演出が散見されて、白けてしまうところがままあった。
 ぼくも、例えば『宇宙英雄記』の説明過多なギャグや、『新魔界大冒険』以降数作続いた「あたたかい目」に代表される顔芸、『奇跡の島』ほかの泣かせに走りすぎて情緒の流れが唐突に感じる部分なんかは、あまり面白くない、あるいは勘弁してほしいと感じる。ほぼ文句なしの傑作と言える前作『新・日本誕生』でさえ、別れのシーンで一同全員泣いている感じは情緒過多に感じたくらいだ。
 だからそういった足し算演出を今までやりすぎた反動として、今作がクールでドライな作風になっていると思うと理解できる。そういった意味で、今までの作品ほぼ全てにあった欠点への反省・改善が行われている、立派な意識の作品ではあるかもしれない。

 でも、その反動が結果として良かったのかどうかは一考する余地があると思う。結論から言うと、ぼくはこの作品にあまり良い印象を持てなかった。ポイントは大きく分けて3つある。

 1つには、いくらなんでも映画ドラえもんらしいワクワク感を削ぎ過ぎていると思う。
 冒頭の氷山で遊ぶシーンは、前述したようにその大部分がオープニングの尺に充てられており、ミュージックビデオ的な楽しそうな雰囲気は伝わるものの、セリフなどがない分のび太たちの創意工夫や各キャラの個性あふれるやり取りが見られないのは少し寂しい。
 一番驚いたのは、冒険の中盤、スペクタクルになりそうな探索シーンを、大胆にダイジェスト的なカットの連なりで済ませてしまっているところだ。それなりに危ない目にあったりしているらしき様子がサラッと流され、えっ、ここ見せてくれないの?という気分になった。
 確かにこれらのシーンは、話として何か展開があるわけではない。だけど、こうした部分にこそ、毎年毎年の冒険それぞれ独自の楽しさが宿る、映画としては大切な場面だと思う。意地悪な言い方をすると、「冒険をしたという事実」だけを義務的に並べられたような感じがする。
 情緒演出が抑えられているのも、ここまで感情表現が乏しいと、観ている側の感情も平板になってせっかくの冒険がちょっと退屈に感じる。

 2つ目は、本作のクールな雰囲気から、なんとなく映画の作り全体が巧みな印象を受けてしまいそうになるが、実際は別にそこまで上手い話づくりではないように思われるということだ。
 例えば冒頭でのドラミの「氷難」「ペンギンに注意」「ラッキーアイテムは星」という3つの予言が全編にわたって順番に拾われていくのだけど、ぼくはこういうのは伏線回収とは言わないんじゃないかと思う。なぜならドラミの予言は「後で回収される」以外の意味が全くなく、ただ最初に提示される不自然な予告に過ぎないからだ。ぼくが思うに本当の意味で綺麗な伏線回収というのは、前作『新・日本誕生』の冒頭における「0点の答案」の扱いのように、その場面はその場面で「家出の動機」「ママとのわかりあえなさ」を示すという必然性を果たしながら、後で再び別の意味を持って重要に使われる、というようなものを指すんじゃないかと思う。
 また、話自体が難解なのはいいけど、それに付随する細部やその語り方にアラや描写不足が見られる気がした。キーアイテムとなるリングにいろんな役割を背負わせすぎて形状まで変化するので、今どういう目的でリングが必要なのか考えてしまうと混乱し、ただでさえ複雑な物語がわかりづらく感じる。モフスケの正体に関する時系列トリックも、元々ややこしい上に「カバンと電池は10万年もつんだろうか…」とか考えると飲み込みづらい。想定されているリテラシーがドラえもん映画としてはかなり高めで、最後のオチが「光年」の概念を知っていないと意味がわからないのもちょっと不安になった。(光年の説明はカーラや博士との会話の中で挟めたんじゃないだろうか。)

 そして3つ目、これはぼくが今作で一番気になったところで、なおかつ多分に感覚的なものなんだけど、本作のハイライトになる場面といえる“偽物のドラえもん”描写に関してだ。
 この偽ドラえもんの表情が、ちょっと度を越して凶悪すぎると感じたのだ。愛着のあるドラえもんというキャラクターのデザインをそんな風に崩して欲しくはないと感じるのもあって、話への没入より不快感の方が勝ってしまったし、悪役描写としても、表情をことさらに憎らしく描いて観客の心理を誘導するのは、あまり上品に感じない。
 ここでののび太の判断に対する本物のドラえもんの反応は、前述したように声を出さないことで情緒過多に流れすぎないようにしているんだけど、憎らしい悪役の表情との対比として考えるとドラえもんの表情もことさら善性を強調しているように思われて、せっかく抑えた演出がなされているのに、かえって心理誘導を感じてしまった。
 ぼくは映画の中で本当に不快なもの、心底怖いものを見るのは普段は大好きだ。だけど、ドラえもんの中でそれをやらないというのは、腰が引けているからとかではなくて、それは矜持だと思うのだ。あくまでキャラクターとしては魅力的な範疇で、ゾッとするような悪のあり方や真の恐怖を描き出すのは、過激な見た目の物を出して怖がらせるより高度なことでもある。ぼくは基本的に、ドラえもんの世界の中に存在するものは、少なくとも見た目は愛嬌があってほしいと思う。

 以上3点は、誰でもはっきり欠点だと指摘できるようないわゆる「つっこみどころ」ではなく、むしろぼく個人の感性に依るところが大きい。でも、ぼくがこの作品に感じる好きになれない要因はまさにそこにある。不特定多数が言語化できるような批判点はあらかじめ避けられた結果、ぼくにとっては「何か違うな…」と感じるものができているというこの結果に、はっきり欠点と言い切れないことへのもどかしさがある。もっと言えば、映画における良さ/悪さにも指摘しやすいものとしづらいものがあって、そこから指摘しづらい方が巧妙に選ばれているような、なんかイヤな感覚がしてしまった。

 これは、わざわざぼくが括弧付きで書いた「つっこみどころ」のような、紋切り型の批判フレーズがSNSで氾濫してきたのと呼応しているような気もする。そうした声の大きい批判の型が「〇〇じゃないから良い」という減点方式の高評価への志向を生み出し、その結果、言語化しにくい、他人とシェアしづらいような味わいや矜持が失われたとしても、その声は大きくならないから無条件で良い作品だということになってしまうのではないか。そんな風につい考えてしまう。

 ちょっと言い過ぎた。ぼくは今作がそんなに嫌いなわけではない。最初に書いた作画の独特な良さとか、南極の氷って意外と深い!というところに対するロマンを描いていることとか、魅力的に感じるところもたくさんある。全体のクールな作風は、南極や氷の凛とした空気感と統一がとれていて美しいとも思う。先に挙げた3つの欠点がそんなに気にならないという感性も全然否定したくないし、ぼくも端正な作品として評価したいという思いもある。
 だからこそ、この「端正な」作品にモヤモヤを感じる自分の心の動きは我がことながら興味深く思ったし、上手く書ききれなかったとしても言語化しておきたいと思った。

 まとめるとすれば、本作は“子供っぽくない”ドラえもんが観たい、という人にとっては絶好の快作だと思う。だけどぼくはそうではなく、ほどほどの幼稚さや垢抜けなさもまた、ドラえもんというシリーズの魅力、あるいはかわいげだと思ったのだった。

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