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映画感想『ドラえもん のび太と緑の巨人伝』(2008年)

 歴代ドラえもん映画の中でも一番の異色作!
 良く言えば意欲作・カルト映画、悪く言えば駄作・失敗作だけど、どちらにしろこんな映画はシリーズで他に存在しないし、今後も作られる事は無いだろう。文字通り空前絶後の、ある種ずば抜けた作品なのは間違いないと思う。

 前作『新魔界大冒険』が論理的で情報量の詰め込まれた作品なのに対し、今作は真逆のアプローチだった。
 どういうことかというと、物語を一つの本筋に収斂させたり、明解にわからせるような指向ではなく、極度に開かれた作品であること。そして、画面や音声の静謐さが特徴の作品ということだ。

 序盤の日常描写からもう独特。画面の明暗が強調され、のび太の町や家のムードがTVシリーズと全く違う印象を帯び、この描き方自体に意味があることが見ている子どもにも何となく伝わると思う。
 その中で丁寧に、愛情を持って描かれるのは、家庭の生活であったり、子供たちが遊ぶ姿であったりといった、物語的な意味というよりもこの世界のリアリティや温度感の肉付けとなるような描写だ。本筋のストーリーに直接寄与しないこのような描写が多いのは前作とは対称的で、それが好ましかった。『映画ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』で、シンプルで小さな物語ながらも背景の人々が驚くべき緻密さで描かれていたのと通ずる、“本筋”の外側でも人々や世界は生き生きと動いているという豊かさの表現だ。

 今回のストレートに良い部分としてはほかに、キャラクター描写の魅力がある。
 好みが分かれるだろうけど、今回のゲスト声優陣の演技は良いと思った。
今回のキャスティングの特徴である、子供声優の多用は概ね上手くいってたと思う。キー坊のキーキーという鳴き声(?)は、比べちゃ悪いけど神木隆之介のピー助より格段に自然で全然ノイズにならなかったし、限られた音声の中での感情表現のバリエーションも豊かだった。ほかの子供キャストでは、個人的には村の子供たちの一人・ロク(ドロ虫を探していた女の子)の声が好き。ちょっと低い声でダウナーなのがリアルでかわいかった。
 堀北真希のリーレ姫はやや苦戦してる部分もあるように思ったけど、スピーチの場面を中心に空虚な感じがハマっていた。求められたことをやらされる中で自分を見失っている、というキャラクターの状況に合っているキャスティングだったと思う。
 あと大塚周夫演じる大臣の事務的な感じがツボだった。こういうユーモアもシリーズでは珍しい。

 植物を色んな形で落とし込んだキャラクターデザインも面白くて見てて飽きないし、キャラクターでなくてもオリジナル植物やアイテムのデザインも秀逸だった。議会のモニター代わりに花火みたいな胞子が空中に飛ばされる設定とかどうやって考えついたんだろう。葉っぱ型ボートのデザインも、操縦席が軸の部分になっていることでそこだけ一段上にあってかっこいい。
 本作の絵的なファンタジー感覚は今年の映画『君たちはどう生きるか』と近いものがある。ちなみに公開年の2008年は『崖の上のポニョ』が公開された年でもあるけど、あれもぶっ飛んだ映像表現が暴走したアニメだった。
 大人になってから見ると、キノコ雲のメタファーや『シンドラーのリスト』の引用(女の子の赤いジョウロ)など、反戦のメッセージが通底していることに気づいたり、リーレの最後の描写と静香のリアクションが露骨な性的メタファーになっていたりと、子供が気付きにくい裏モチーフが忍ばされていることに気づいて、けっこう印象が変わる。

 ここまで書くと“普通に”良い作品のようにも思えるけど、最初に書いたように本作はとびきりの異色作である。どういうところが変なのか。

 まず観ていて最初に驚くのは、キー坊とのび太が特に何の理屈もなく空中を飛ぶ場面。前述した通り丁寧な日常描写から、急に飛躍(文字通り)を見せる場面は、それから後も何故飛ぶことができたか理由が明かされることはない。
 序盤の一つのピークになっている、双葉型のひみつ道具がクルクル回る場面も、結局この道具の本来の機能はわからないままだ。
 これらのシーンは、のび太とキー坊の関係の特別さや、のび太達5人が植物への親しみを肌で感じることを表した抽象表現だと解釈できる。でも、これは全くドラえもん映画的ではない。
 藤子Fは子ども向け漫画を描くにあたって「セリフは簡潔でわかりやすく」(『文藝春秋』臨時増刊号(1994年))を常に心がけており、なおかつ物語的なロジックや科学的理屈を誰よりも大切にする人であったから(大長編ドラえもん『のび太とアニマル惑星』で、二足歩行で歩く動物の宇宙人にドラえもんが疑問を呈する場面などはこうしたこだわりがよく現れている)、理屈のない詩的なストーリーテリングは、ドラえもん映画と一番相容れないものだと思う。
 これらの非ドラえもん的抽象表現は、こともあろうに映画の後の方になればなるほど前面に出てくる。終盤に至っては、劇中で何が起こっているのかすらわからないという有様で、観た人誰もが呆気にとられる。

 こうした作風を、ただ単に粗悪だと片付けるのはもったいないと僕は思う。
 物語的な飛躍による驚きや、作画のタッチが揺れ動くダイナミズムや、終盤のあるアクションによってキャラクターが極端に崩れる場面は、全て演出上の意図があってそうなっている物で、ドラ映画としてのこだわりを除けば、一種の芸術鑑賞的なスタンスで楽しめる。むしろアニメ表現の豊かさという意味では、シリーズの他作品より格段に上とも言える。
 そうでなくても、この作品の誰が見ても明らかな異常性をカルト映画として位置づけ、知る人ぞ知る貴重な作品として重宝する向きもあってもいいと思う。

 ただ、アートアニメとしてなら手放しで絶賛できる作品かといわれると、そうともいえない。
 一番どうかと思ったのは、ロングショットの画面が面白みに欠けることだ。
 例えば中盤、緑の都市を上空から見渡した絵面はシンプルすぎて、都市としての生命力が感じづらい。前述したように個々のキャラやアイテムのデザインは秀逸だっただけに、こういう全体的な絵も魅力を感じさせてほしかった。
 終盤で舞台が地球になってからのカタストロフ的展開は、ショッキングで面白い絵面もあるんだけど、一面緑の絵の具をただ塗ったような画面も多い。ほかならぬ地球がこうなってしまっている、という現実的な切迫感が少なくなり、単に抽象的などこでもない場所での出来事に見えてしまうのはもったいないと思った。
 ここから先は話自体も抽象的になり、完全にアートアニメ的な世界に突入する。それはいいんだけど、最終的に出てくるイメージが“花が咲き乱れてみんな笑顔”というのはあまりにストレートで、先鋭的な作品だと思って見ていたわりに安直だと感じてしまったし、不吉な含意があるようにも取れて、あまり良い着地と思えなかった。流石に何がどうなったのかわからなすぎるし。

 ということで、ドラ映画としてもアート作品としても、良くできた作品とはとても言い難い。だけど、どう考えても唯一無二であり、何より異常なチャレンジ精神のあるこの作品を、僕は全く嫌いになれない。


【追記】

 本作のかなり力の入ったWikipedia(2023/12/19時点)を見ると、『アニメスタイル 002 2012.10』等における渡辺歩監督の本作に対する複雑な発言がとても興味深かったし、脚本初稿との違いがコミカライズにも表われているようで、コミック版も読むべきかなと思った。

 さらに、なぜかつい先月になって、本作のノベライズが発売されたという。

 これらの諸々いびつな周辺事情や作品展開のあり方も、本作の特殊性をより高めているように思う。ドラえもんファン的には、もっと掘り下げがいのある作品なのかもしれない。



【蛇足】

 個人的に本作が好きな要因として、映画公開時に発売されたムック本『映画ドラえ本 「のび太と緑の巨人伝」公式ファンブック』(小学館)の存在がある。

 やや大人向けの本になっていて、監督のインタビューや作中世界の考察、設定資料など充実していた。子供には難しい内容のコラム等もあったけど、当時小学生だった僕はこの本が好きで何度も読んだ。監督インタビューで“靴”が重要なモチーフとして反復されていることに言及があったり、植物キャラクターや乗り物のデザインを並べたページがあったりしたことで、表面的なストーリーだけではない映画の見方を会得した気がする。それこそ後に好きになる黒沢清作品のような、普通にエンタメとして楽しみづらい作品を楽しむ目線がついたのはこの本のおかげかもしれないので、自分史的にかなり重要なアイテムだ。(久しぶりに引っ張り出してきたら「ドラえもんえかきうた」のページだけハサミで切り抜いて学校に持っていった形跡があった。バカだな〜。)
 その後も『映画ドラえ本』シリーズは刊行され、翌年度の『新宇宙開拓史』の号も面白かったけど、その翌年からは内容が子供向けに寄り過ぎてしまい、子供ながらにつまらないと思って買わなくなってしまった。
 理解が難しい内容でも興味を持たせてくれるような、ちょっと背伸びして知的好奇心が満たされる内容が好きだったのだ。この本こそ、映画本編よりずっと藤子Fイズムを受け継いだ存在ではないだろうかと思う。




 

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