厳罰化の是非について メギド72のセリフは悪魔なようで人間のものだ

 日本はここ最近、地位向上運動などがインターネット上で盛んに行われている。その一方、過激な考え方が目立つのも事実であり、犯罪者への刑罰として極端なものを求める声が後をたたない。例えば、性犯罪者にたいしてマーキングを行う条例の話題が出た。その件に関して、絶賛の声が多かったが、私は「あり得ない」と思ってしまったのだ。私は、大学で心理学を専攻していた。とった科目には犯罪心理学もあり、そこで多くのことを考えさせられたのであった。犯罪心理学を受講したのは、私の中でとても良い時間だったと思う。中でも、ニルスクリスティの考え方は目から鱗だったのだ。

犯罪者に厳しくある国と優しくある国

 ニルス・クリスティ氏はノルウェーの社会学・犯罪学者である。ノルウェーといえば世界で一番囚人に優しい国というのはご存知だろうか。それは彼が主導して「犯罪率を減らす」ための施策として行われている。彼の主張は「厳罰化が進む程、治安は悪化し社会は崩壊する」というのである。囚人の大半は失業者など社会から逸脱した者であり、厳罰化は彼らを隔離することによって平和を享受しようとする中産階級の世論が司法に反映されたに過ぎない。犯罪を根本から減らすには、社会逸脱者の実態を知るべきというのが根本的な考え方だ。
 授業で見た番組では、厳罰化の進むアメリカと比較していた。アメリカではスリーストライク法というものが採用されている地域がある。犯罪の重さを問わず、3回法を犯したら終身刑というものだ。一般的な人々からしたら「そんなものがあれば犯罪が減る」と思うかもしれない。しかし、クリスティ氏は犯罪者は既に社会的に酷い目にあっており、更に酷い目(社会的な孤立)に合えばより犯罪を犯しやすくなるという論を展開している。社会的な孤立というのは、犯罪者を許さない・人とみなさない世間のことであり、TVなどで犯罪者を「一般人と違う怪物」として扱うようなことも含む。スリーストライク法というリスクがあるのに何故罪を重ねるのか、理解できない人もいるだろう。私は例として映画「アントマン」を出したい。見た人はわかると思うが、アントマンことスコットは一度犯罪を犯して刑務所に入った。愛する娘のために改心して真面目に働こうとするものの、犯罪歴から職にありつけなかった。娘に会うため、自らが生活するためには働かなくてはならず、もう二度と犯罪はしないと決めたものの食い扶持が見つからない。結果彼は、二回目の窃盗を犯したのだった。このシーンを見たとき、私は他人事と思えなかった。
 こうした厳罰化によって生まれる犯罪というのは全く珍しくない。平成30年版犯罪白書を見てほしい。そこには再犯率の項目がある。平成29年度の再犯者は48.7%にものぼる。およそ半分が再犯者ということだ。もし、世間が元犯罪者を許せば、犯罪自体を大きく減らすことができるのは想像に難くない。犯罪者を許さない者は被害者で十分なのだ。

メギド72で描かれた犯罪者への価値

 さて、本題に入ろうと思う。まず、メギド72というゲームにおいて、人間(ゲーム内ではヴィータと呼ばれる)の法で尊重されているのは人権であると言及された(現在開催中のイベント「ドキドキメギドの保健教室」より)。メギドとは我々の世界で言う悪魔であり、メギドラルという悪魔による世界が構築されている。

その世界で最も重い刑罰の内容が上記のものである。ゲームをやってない者にわかりやすくいうと、悪魔の体から魂を取り出し、人間の体に移し替えた上で、実りのない不毛の地に永久追放するというものであった。「死刑」の上を行く重い刑罰である。生きているのに?と思うかもしれないが、続いてこのようなセリフが出てくる。

なんとも悪魔のやりそうな刑罰だ。ちなみにこの復讐をした者は罪に問われない。やる内容はともかくとして、「被害者の損失の代替が主眼」というのは少し覚えがないだろうか?厳罰化に関して、法に関して、SNS上でこの手の投稿を見たことある人は少なくないはず。更にこう続く。

ここまでくるとこういう発言見た見た!という人も多くなるはず。そして思い返ってほしいのは、この発言は「悪魔の価値観によるもの」であるという点だ。発言者は悪魔の世界で裁判官をやっている悪魔である。そして、この刑罰に代わって執行されたのが「悪魔の体から魂を人間界に送り、人間に生まれ変わらせる」というものだ。このゲームでは、メギドラル(悪魔の世界)が人間の世界で大規模な戦争を起こそうとしている。人間に例えて言うなれば、「人間の体から犬や猫などの動物に転生させて、そこで我々が起こす戦争に巻き込まれて成すすべもなく死ぬ」ことが刑罰の内容である。上記と大きく異なるのは私刑がないことである。しかしこのあとにこう続く。「(彼女が裁いた者が)反省して謝りに来た」と。
 やってる刑罰の内容はめちゃくちゃに思えるかもしれないが、その背景にある思想は極めて今を生きる人々にも根付いてるものではないだろうか。

全ての人間は人間だ。

 これはクリスティ氏による発言だ。犯罪を犯す事は確かに間違いで悪いことではあるが、アントマンの例や何かの理由があってそうした者もいるだろう。例えば、世界的に人気なモンテ・クリスト伯だって、復讐による暗躍を描いた物語だ。あれが人気なのは主人公のエドモン・ダンテスに同情や共感ができるからだ。更にいうと、近々よく取り上げられるようになった児童虐待だって、親の余裕や社会的な繋がり不足によって起こった悲劇でもあることはわかるだろう。
 自らが犯罪者になる可能性だって0ではない。意図的にしろ意図的でないにしろ。スラム街は治安が悪いというが、それは生きるためだからだ。生きるために冷酷になる例は様々な世界的な歴史からもわかるだろう。犯罪者だって人間だからこそ間違ってしまったのだ。無論、その間違いは許されるものではないし被害者は一生癒えない傷を追うのも事実だ。ただ、もしも本当に犯罪の少ない世の中を目指すのであれば、被害者以外の世間が許すという傾向は必須のはずだ。
 日本でも実施されている裁判員制度はノルウェーを元にしている。ノルウェーの場合、犯罪者の背景を知ること、同じ人間であると知ることが目的なのだ。日本のメディアは懐疑心を煽るばかりだが、ノルウェーの番組では犯罪について、犯罪者について討論するものがある。それも同じ人間であるという認識をするためのものであり、受刑者もその討論に参加している。犯罪について議論が起こるとき、受刑者・犯罪者を無視しがちだが、彼・彼女らもまた当事者なのだ。
 繰り返すが、決して犯罪は悪くないということを言いたいのではない。犯罪はいけないことで、然るように反省すべきだ。しかし、刑罰とは「社会復帰のための更生」であり、「報復」ではない。反省した彼らが社会復帰した際に、きちんと生きることができるよう世間が許さない限り、どんどん犯罪は増えるしどんどん治安が悪くなるのも事実だと思う。さらにいえば、よほど大きな事件でもない限り、人が亡くなった事件でさえ世間は忘れるものだ。忘れてしまうのに、一時の憤慨から、また人を犯罪者にしてしまう世界は、なんとも救いがない。

モンスターのような犯罪者に、私は出会ったことがない。どの犯罪者だって、近づいてみれば普通の人間なんです。生活環境を整えれば、必ず立ち直ります。 (ニルス・クリスティ)

 社会として、人として、我々が目指すべき到着点はどこにあるのか、厳罰化が進む今だからこそ立ち止まって丁寧に考えなくてはいけないのではないだろうか。

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