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姥捨て山と家父長制:『楢山節考』(今村昌平、1983)と『デンデラ』(天顔大介、2011)

姥捨ては、共同体にとって「生産性のない」「役に立たない」人間を土着信仰の対象となっている山に廃棄するシステムである。

上野千鶴子(2009)は、定年で市場に労働力として貢献できなくなった男性のことを「人間産業廃棄物」と表現したが、姥捨て山は男女問わず共同体の存続にとって邪魔者になった高齢者を文字通り「廃棄」してしまう制度である。

今村昌平監督の『楢山節考』は、信州の山岳地帯に住む69歳の寡婦おりんが、70歳を迎えるにあたり楢山参り(姥捨て)に連れられ山に放置されるまでを描く。

強調されるのは、楢山参りという習慣とそれを強制する村共同体の家父長制への違和感と抗えなさである。
おりんの長男である辰平やその後妻である玉やんは、度々おりんの楢山参りの話を先送りにしようとしたり、楢山様と呼ばれる土着の神様の存在をやんわり否定したりする。それでも家族の生活を維持するためにおりんは楢山へ登ることを譲らず、物語の最後には雪の降る楢山に放置されることを選ぶ。

『楢山節考』において楢山とは必ずしも老人が行かなければいけない場所ではない。楢山参りは山登りに耐えられる健康な老人にのみ与えられるある種の特権である。

病気の老人たちは70歳を過ぎても山を登ることはかなわない。そして、病床にふけ、そのまま家に居続けることは彼らにとって恥じるべきこととなる。
健康なまま村に住み続けることもまた恥じるべきことである。老人たちは長く生き続け、その分だけ飯を食べるが、その割に仕事をすることは出来ない。家族に迷惑をかけることになると思い込まされ、生きている自分を恥じるようになる。だからこそ、おりんは健康そのものだった自身の歯を岩で砕き、早く死ぬべき、楢山に登るべき老人だということを村の住民たちに見せつける。

『楢山節考』では、老いた親が死ねば、長男が家を継ぐ。そしてこの家族システムは、そのまま村の自治とも直結する。

村とは数人の男性たちによって取り仕切られる共同体である。物語のほとんどの場面でこの男たちは姿をみせず、村の中での重大な決め事を取り仕切るときのみ現れる。そしてこの男たちは村の住民の生殺与奪の権利を握っている存在でもある。

男たちは、村の野菜の収穫を盗んでいた雨屋一家への制裁として家長の男だけを残して、女子供を穴の中に生き埋めにする決定をした。これを実行するときには監視役としてその場に居合わせている。おりんが楢山参りをする前日にも、山への登り方や詳しいしきたりを伝えに来たのもこの男たちである。

男たちは村の秩序のために罰則を与え、お山に人を送ることで人口の管理をする。男たちは自分たちで手を汚すことはない。すべてを管理、統率するだけである。実行するのは階級の低いヤッコと呼ばれる農奴や生産することのできない老人である。

姥捨てとは男たちが取り仕切る家父長的なシステムを弱者を使って維持する手段として存在するのである。

村の人々はそのシステムに何となく違和感を抱きながらも、自分たちの生活も苦しいから仕方ないと、隣人を生き埋めにしたり、親を山に連れて行ったりすることで自らの生存を確保する。あるいは確保していると思わされる。家父長的な村のシステムそのものも住民たちの死によって維持されていくのである。

姥捨てという村の風習とそれを取り仕切る男たちへの抵抗は、今村昌平の息子である天顔大介監督の『デンデラ』において試みられている。

デンデラは、30年前に山に捨てられ、現在100歳だという三ツ星メイが山をひとりで生き延び、建設した共同体の名称である。メイは村の男たちによって受けた(性)暴力や差別への恨みを晴らすべく、山に捨てられた女だけを助け続け、女だけの共同体としてデンデラを発展させていく。主人公の斎藤カユは、デンデラに50人目の住民として迎えられる。デンデラは、コミューンのように食べ物が公平に分配されており、動くことができない者たちにも食べ物が分け与えられる理想のように思える共同体になっている。女たちは自ら狩りに出かけウサギやリスを捕まえ、食料を蓄える。そして、それ以外の時間をいつか村の男たちを皆殺しにするために槍などの戦闘訓練に費やしている。

『デンデラ』において、女たちは村にいたときのように男に従い続ける女であることを放棄し、男のようになろうとする。建築も、狩りも、政治もすべて女が自分たちで取り仕切る。デンデラは、村で苦労してきた女たちが、男に支配され続けた人生を生きなおす場所として存在する。

しかし、デンデラの住民たちが本格的に村の男たちへの復讐を実行に移そうとした頃、住民たちがメス熊とその子熊によって襲われ、立て続けに捕食される。住民のリーダーであるメイの「同じ女のくせに」という熊への恨み言は、女として生きることへの強制性への抵抗である。

メス熊は男たちへの抵抗を計画したデンデラの住民たちを襲うことで村にいたころと同じような支配される女としてあり続けること、家父長制を維持し続けるための妻であり母であることを再度強制する。男への反逆は罪であり、その計画は未然に潰されてしまうのである。

住民たちは何とか子熊を殺し、メス熊の目を潰して追い払うことに成功する。しかし、山を下り村の襲撃へ向かうその道中で、男の代理表象としての自然現象(雪崩)に見舞われ大半の住民が死んでしまう。メイの「何度立ち上がっても足をすくわれる」という言葉には、何度抵抗しても打ち勝てない家父長制の圧倒的強さが暗示される。メイたちの男になるための訓練や生活は、「本物の男」たちによってくじかれてしまうのである。

物語の最後には、主人公のカユが取り逃がしたメス熊との対決に臨む。メス熊から追われ、逃げ続けたカユは近くの集落にたどり着く。そこにはメス熊の夫であるオス熊が、メス熊に呼ばれてやってきていた。オス熊は、カユたちが何度やろうとしてもできなかった住民の皆殺しをいともたやすく実行してしまう。オス熊はそのまま家父長的な強さをカユに見せつける。しかし、そのオス熊も人間の男たちの銃によって撃ち殺される。人間たちの家父長的な体制は維持されてしまう。物語の最後は、メス熊に立ち向かうカユの姿を映しだす。カユとメス熊との決着は一応観客の判断に委ねられる。

 『デンデラ』は捨てられた女たちが、村の家父長制への恨みや怒りを言葉や行動として示すという意味で『楢山節考』の消極的抵抗とは異なる姥捨て山のイメージを見せる。しかし、デンデラの抵抗は全くの失敗に終わるという意味では、『楢山節考』ではあいまいだった抵抗の可能性、つまり家父長制から抜け出す未来の可能性が全く潰されてしまったようにも見える。

『デンデラ』が見せる男化する女性というイメージも重要な論点になる。男に抵抗するためには、男にならなければいけないのか。男の身体を身につけ、男の言葉を身につけなければいけないのか。

男たちの支配的システムや言語から抜け出すことはできるのか。そして、生産性という訳の分からないことばのせいで生きづらさを感じ、死を欲望させられるシステムからはいかに抜け出せるのか。