「とけたためらい」

好きなときに好きなだけ
手近に読みたい本を積み
お気に入りのペンや付箋やメモ用紙や
心地よい音楽で満たすことのできる
自分だけの机で
波打つ未知に飛び込む
深く限界まで潜ってから
ふと水面に浮き上がるとき
コーヒーの豆を挽こうと思う
ミルを挽く動作は
こわばった肩をなめらかにする
それから
向こうの部屋で仕事している君を思う
コーヒーの香りで空気を入れ換えよう
マグカップを手に取って
几帳面に閉じられた扉を押し開ける
君の机に置こうとしたとき
ふいに手が止まり
忘れていたためらいがやってきた
ほんの一秒の十分の一の瞬間
「飲み物をデスクに置いてはいけません」
雑誌社のアルバイトで投げかけられた言葉
原稿を大事にしなさい

書斎に入るといつものように
彼は忙しくて話す暇はないよ
という顔をする
でも
たまにぶり返す私のためらいを
少しおどけて話してみた
彼は静かに言った
「これは僕のデスクだからね」
やさしくて気分のよくなる言葉だった

受け取りたいものを
君は私よりも知っていて
なにげない顔で私にくれる

そんなことがあったのを
しばらく忘れていたのだけど
ふと思い出したら
少し大きい気分になった
自分の机だけでは
何かを置いて飲んでもいい
なにを書いてもいい
どんなふうでもいいのだ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?