正体
ああ、疲れてしまった。
仕事ではミスばかり。
たまにある休暇は眠るだけの日々。
社会の歯車にすら成れず、
かと言って何も為さず。
ああ、もう疲れ切ってしまった。
普段は洗濯物を干しているフックに、
俺の首を引っ掛ければどれだけ楽になれるだろうか。
最初はそんな考えも馬鹿馬鹿しいと溜息混じりの笑いが漏れた。
だが、俺は今これが「自分が終わる場所」なんだとはっきり感じている。
この閉塞感のある狭いバスルームが、とってもお似合いだ。
ネクタイを今までの人生で一番きつく結ぶ。
だけど、今までの人生で一番息苦しさを感じなかった。
だって、もう全部終わりなんだから。
ネクタイをフックに通す。
いつも頭を乗せていた浴室の淵から、水の無いバスタブへ足を投げる。
体を駆け巡っている血液が異変を感じている。
脳が酸素を求めている。
これまで我慢の日々を思えば、この数分間の最終試験なんて──
ふと、体が軽くなった。
「よう、死ぬのか?」
なんて楽に死ぬことが出来るんだ、と思ったが、状況は違うらしい。
真っ黒な影が俺の両腋に手を差し込み、軽々と持ち上げている。
「自分が死んだ後のこと、考えたことあるか?」
考えたことが無いと言えば嘘だ。
でも、そんなことを考えるのは無駄だったんだ。
だって、死んだらそこで終わりじゃないか。
「見えるか、この小さな建物」
ああ、忘れるわけないじゃないか。
俺がいつも苦しめられたオフィスだ。
「そんなに思い詰めてたなんて気づかなかった、もっと相談してくれれば仕事なんて……」
怒った顔しか見た事の無い上司が独り泣いている。
「たまには帰っておいで」
母の声だ。一瞬で分かってしまった、もう3年も話していないのに。
「お母さんはね、元気な顔が見れたらそれで良かったのよ。
大学受験の時、まだ結果も出てないのにわんわん泣いてたの覚えてる?
あの時、自分のことじゃなくて高いお金を払って塾に行かせてもらったのにって泣いてたの、お母さんびっくりしちゃって。本当に優しい子に育ったねってお父さんと話したら、お父さん、何も言わなかったけどすごく嬉しそうだったんだから。ねえ。」
そんなこともあったなぁ。
こんなにも周りが見えなくなってたなんて。
明日からはもう少し、楽しくなりそうだ。
お祝いのように、大きなクラッカーの音が一発、狭いバスルームに響いた。
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