ぜんちゃん丼

ぜんちゃんは、車椅子の背中にオシッコのバックをぶら下げて、運ばれてきた丼を、黙々とスプーンで口に運んだ。

いつも野菜を残すので、たいていは肉や魚のおかずがドカンと載っている。少し白髪が混ざっているが、まだ若いんだからお腹が空いたらかわいそうだと、丼はずっしりと重い。職員が忙しなく行き来する食堂の一角で、提供された丼を5分ほどでかき込むと、食べこぼしのためにかけられたエプロンを取り、車椅子のブレーキを外して、自分で洗面台へ移動する。テプラのシールで自分の名前がデカデカと貼ってあるコップに手を伸ばし、歯ブラシに歯磨き粉を付けて、歯を磨き終わると今度は、また車椅子を漕いでエレベーターの前まで移動する。

職員が忙しそうな時は、黙ってエレベーターで自分の居室がある階まで行く。そして黙って部屋に戻り、背中のオシッコのバックをベット柵へ掛け直して、それから転ばないように立ち上がり、ベットに横になる。

しばらくすると職員が来て、「ぜんちゃん大丈夫だった?ごめんねぇ一緒にきてあげられなくて。」などと言いながら、オシッコのバックの位置を確認して、車椅子を少し離れた所に置いて出て行く。1時間後にまた職員が来て、「お通じどう?」と聞いてくる。それが済むと次の食事までは誰も来ない。部屋の中でテレビの音が動いているだけだ。


でも今日は、ぜんちゃんに楽しみがあった。

スナック菓子の袋がひとつと、ペットボトルの炭酸ジュース。

スナック菓子の袋の口を開けて、そのまま全部口の中へ流し込む。全部食べ終わるのに、ものの数分。

ペットボトルの炭酸を飲もうとしたが、フタが開かない。ぜんちゃんには軽い麻痺がある。数年前に脳梗塞を患って、それでこの施設に来た。だいぶ良くなって、立ったり座ったり、ご飯を食べたりするのは困らなくなったけれど、下の世話とお風呂は、1人だとままならない。親も配偶者もいないぜんちゃんが生きていくためには、どこかの施設に入るしかなかった。

見もしないテレビがなんとなく鳴っている部屋で、ぜんちゃんはオムツ交換の時間を待った。ドアをノックする音がして、顔を出したのはぜんちゃんのひとつ上のお姉さん介護職員。いつもの「お通じどう?」のセリフに首を横に振る。「そっか、じゃ見なくても大丈夫だね。」と気さくに笑う介護職員に向かってペットボトルを差し出す。「開けて」

「開けて」

これが、今日1日でぜんちゃんから出た言葉の全部。

ぜんちゃんがして欲しいことの、全部だった。


ぜんちゃんが楽しみにしているお菓子やジュースは、ぜんちゃんの妹が差し入れてくれたものだ。

ぜんちゃんのオシッコのバックには、タオルを二つ折りにして縫い合わせた、カバーが付いている。洗い替えのカバーも、クローゼットの中にある。フケ症のぜんちゃんのために、専用のシャンプーも予備が5つあるし、良い香りのするボディソープも買い置きがある。全部妹が差し入れてくれるものだ。

差し入れに来る時はいつも、旦那さんが運転する車で来て、一緒に帰って行く。ぜんちゃんの妹には家庭があった。


幼い時、妹が家に帰って来ないことがあった。

日が暮れる頃になって母親が青い顔であちこちに電話を掛けていた時の胸のザワザワは、いくつになっても今のことのように蘇ってくる。「遊びに行ってくるね。」とバイバイすると妹を見送ったのはぜんちゃんだった。社交的でお友達がたくさん居る妹と違って、ぜんちゃんはいつも家でひとりぼっちだった。学校の男の子も女の子も、みんなぜんちゃんのことを気持ち悪がった。何を話しかけても、どんなイタズラを仕掛けても、ぜんちゃんは黙って俯いている子だった。無理やり何か言わせようとすると、一瞬目が合って、ふんと小さく笑うだけだった。だけど妹だけは、そんなぜんちゃんに甘えた。お兄ちゃんお兄ちゃんとまとわりついてきては、コロコロとよく笑った。妹が大好きな焼き芋を半分こにした時、先に食べ終わった妹がぜんちゃんの顔をじっと見ていたので、残っていた焼き芋を全部渡してやると、踊り出して喜んだ。その時の嬉しそうな顔が可愛くて、それから焼き芋がある時は、ぜんちゃんは全部妹に食べさせてやった。「お兄ちゃん大好き!」と笑う妹は、ぜんちゃんの世界の全部だった。

その晩、妹が家に帰ってきた時のことを、ぜんちゃんは一生忘れないだろう。生きていてくれた、それだけで、ぜんちゃんの世界の全部が大丈夫になったんだ。


ぜんちゃんは、今日も黙々と丼をかき込む。

他人様の世話にならなければ生きていけない体だし、自分の食いぶちを自分で稼ぐこともできない。

でも、ぜんちゃんが施設で暮らすことで、妹の暮らしは落ち着いている。たまに差し入れに来る時の「お兄ちゃん」と呼んでくれる妹の顔を見られれば、それでいい。

ぜんちゃんは今日も黙々と丼をかき込む。

それが妹のためにできる全部だから。

真っ白いTシャツの兄ちゃんの背中には今日も、妹が真新しいタオルを選んで作ったオシッコのバックのカバーが、ぶら下がっている。

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