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8/9 脳癖

『ジェンダー』という言葉を思い出そうとするとき、必ず『ジェネレーション』が先に出てきて、辿り着くのに時間がかかる。

『アーガイル』を思い出そうとするときは『ガーゴイル』がたいてい先に出てきて(ここでいったん、海外児童文学『バーティミアス』1巻、表紙に鎮座する小鬼の石像のような主人公を思い出す。あれが本当にガーゴイルだったかは憶えていない。赤い表紙だ。かなり厚みがある。)スムーズに出てこない。

昨日『空気椅子』と言おうとして『電気椅子』と発言したが、この言い間違いも何度かしていると思う。
(これは『空気椅子』というインビジブルな事象を、『透明人間』『透明マント』のような技術結集だと連想してしまう私の脳の癖があって、技術結集=電気と更に連想して、結果として「電気椅子」と言ってしまっている自覚がある。自覚はあるが発言は止められない。)

こういう、Aを思い出そうとしてBが絶対先に出てきてしまう脳癖について考える。
まあ、少し考えた結果、考えるというほどでもない気がする。
同じ引き出しに入れているってだけだ。
もしくは俳優の名前を思い出そうとして先に代表作のタイトルが出てくるとか、その類か。

西村賢太さんの本が読みたいな……。
西村賢太さんの著作で、まだ読んでいないものがあるのは幸せだ。
西村賢太さんを思い出すと、そういえばニシダさん、にしだこうきさんの著作も読みたいな……とまたも連想する。
ニシダさんの本は多分とても楽しく読めるので、すべて著作を読み終わってしまうのが、1冊目を読む前から、寂しい。
ニシダさんと世界観さんがやってる本のポッドキャスト割に聞いているが、2人の本の好みは好きだ。
話題に出たものはチェックしている。

当たり前のことを言うかもしれないけど、当たり前のようにずっとそれをやっている人たちのおすすめは、変に力が入っておらず信用できる。
誰かが公で何かを『オススメ』してるのが以前よりたくさん視界に入って、正直辟易することもある。


知人の知人が日本人に帰化しようとしていて、日本名をどうするか決めかねている。
という会話をして、敢えてカジュアルに、自分の名前を変える機会があったらどうするか? という話をした。
自分の感覚を具体的にして述べるような会話は、自分に対して発見がある。
こういう漢字が好きだとか、こういう音が好きだとか。

ここにいつも書くような「なにかをおもう」、感想を抱くということは、まあ、何か起こらないと、何も思わない。
何か起こるっていうのは、感覚を大雑把に四捨五入すると、非日常を体感した時間だとも思う。

芸術作品の鑑賞は大抵そうだと思うし、殺人事件のニュースを見て関係者の状況に思いを馳せる、のんびり散歩に出て普段は気にしない道端の花や葉の様相に注目する、雨の音に耳を澄ましてどう聞こえるか?、あの雲は何の形に見えるか?
非日常感の話だ。
非日常を感じた時に、それに対して「何かを思った」と思う。

そして仕事というのは、日常だ。
先述した、非日常で鑑賞される芸術作品をつくる仕事をしていたとしても、仕事は日常だ。
自分を非日常に投じることが仕事だとしても、それは日常だから……あんまり、何も、おもわない。
そうした仕事中にたくさん思った、考えたことがあったとしても、何となく個人的に「おもった」ことにカウントしない。

たとえば、俳優さんのインタビューとブログを比べたりすると、そういう感覚で生活をしている人もたくさんいそうだと思う。
文章という1次元が、特に現実から遠いというのもあるかもしれないけれど。

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