見出し画像

らしくって、きっと等身大

月の美しさが増す季節ですね。柴田ののかです☺︎
役者として出会った人々やご縁と発見、気持ちと想い出、そんな909との時間を綴るnote.
記事を書きたい方が多くて結構悩んじゃうけど、お次は"ともさん"にしようかなと。
わたしにとって909の中で初めて素を出せた相手。芝居を続けようと思えたのが前回の記事で書いたカフカさんなら、909で芝居を続けようと思ったのはともさんのおかげだからともさんのことも書き残しておきたくて。

今回はともさんこと"沖田ともみさん"です☺︎

一番右がともさん。一番左がわたし。
わたしがともさんとがっつりお芝居ができたのは
舞台『名探偵はご機嫌ナナメ』の小屋入り後、なんかの待ち時間の代役した時のみ。もっと一緒に演劇したいな


ともさんも、わたしも、
あ、やっぱり役者だなぁってしみじみ思う。

役者ってのは役になりきって演じる人のことをいいますと言われてはや数年。

発声、身体訓練、役づくり、戯曲読解、

自分でありながら他者になりきることにそれなりに長く向き合ってきたように思う。

ただそれと同じくらい、

目配り、気遣い、空気読み、場に合う振る舞い

自分でありながら自分らしくいることにもそれなりに長く向き合ってきたようにも思う。


自分らしくってなんだ。
自分はわたし自身という意味だからわかるけど
じゃあらしくってなんなんだ。
ものの状態がよく表されている状態という意味が出たけど、わたしの状態がよく表されてる状態ということの意味がよくわからず説明されてもなんだかしっくりこない。

だからわたしは自分でありながら自分らしくいることに、まずゴールが明確になっていないからどうすれば自分らしくいられるかの筋道もわからないまま

手探りで模索して、試行錯誤して。

わたしは長らく生活の中でもお芝居をしながら生きてきたのだと思う。

自分は自分でありながら、
「子ども」だから大人の言うことをきこうだとか
「先輩」だから頼られる存在になろうとか
「年下」だから少し甘えちゃえだとか
「部長」だから言いたくもないこと言おうだとか
「社会人」だからしっかりしなきゃとか

実際はそんな人間じゃないのにと思っているのに、いろんな"「  」の自分"を演じながら生活をしてきた感覚がある。

求められている自分
必要とされている自分
場にふさわしい自分

その積み重ねが結果として引き起こす、
相手の捉えている自分と自分の思う自分との乖離

そんな演じる日々の中に
「自分」はどこにいるのだろう。
「らしく」はどこにあるのだろう。
わたしは一体「何者」なんだろう。

こんなめんどくさいこと考えるのは自分くらいなものなんだろうなということもわかった上で、ずっとそのことをぐるぐる考え続けてる。


それは舞台『名探偵はご機嫌ナナメ』の稽古中も例に洩れず。
「客演」としてどう振る舞おうとか
「座組」としてどう立ち回ろうかとか
「座組最年少」としてなにをすればいいのかとか
「芝居経験者」としてどう役に立てるかとか
「役」としてどこまで色を出していくのかとか

実際はそんな人間じゃないけどと思いながら、
"持ち役と役を持っている自分"を演じ分けながら稽古をしてきた感覚がある。

「  」の自分として評価を受ける自分
全体をみて不足な役割を担いにいく自分
相手の立ち回りをみて動きを変える自分

その積み重ねが結果として引き起こした、
自分で自分の動きを制御していく感覚

そんな演じ分けの続く稽古の中で
「自分」はどこにいるのだろう。
「らしく」はどこにあるのだろう。
わたしは一体「何者」なんだろう。

こんなややこしいことしているのは自分だけなんだろうなと思った上で、ずっとそのことを内に籠って独りでぐるぐる考え続けていた。

でも実際、それは自分だけではなかった。

稽古場で周りの様子を見ながらこの座組における自分の立ち位置を探ろうと外に目を向けたら
自分と同じように自分らしくを模索する人の存在を感じて。それがともさんだった。

わたし自身がこの場でどういう自分でいったらいいのかなって考えているから、
きっとあの人も似たようなことを考えているんではなかろうかって察してしまうことはよくある。

だからともさんには自分から話しかけた。
自分勝手に仲間を見つけた気になって。

だけどともさんと話していてもなにかの自分は自分にストッパーをかけた。
他人思いに自分を押し付けるのは違う気がして。

それでもともさんと話をしているとなぜだかなにかがぽろっとこぼれ落ちてしまって。
自分を出したいと自分を出さないの間で中途半端に心が揺れてしまって。

「あ、ちょっと今のは間違えました」
と私が自分の振る舞いを修正しようとすると、
「いや!そのままでいい!そのままがいい!」
とその修正を止めにかかるともさん。

「ののちゃんが素の自分でいてくれたら、
私も素の自分でいられるからそのままでいて!」
ともさんの言葉のストレートさになかなかの衝撃を受けてその勢いで目から鱗が飛び出した。

あ、これが「素」の自分というやつか

なんの味付けもなく素朴で面白みもないという評価を受けてきたし、不足な役割なんて皆が個性を発揮して出た余り物を有り難く拾っているだけだから皆がいないと成り立たないし、圧倒的他人軸で自分軸を貫けないような軟弱な自分。

あ、でも、そんな素の自分でもともさんはわたしを受け止めてくれるんだなぁ

わたしは素の自分について、他人から言われたことも自分で思っていることも含めて、
過大評価しているのでもなく
過小評価しているのでもなく
それらを紛れもない事実と思っていて。
だからそんな素朴な自分でいいんですか?と思うのにともさんはそれがいいとまで言ってくれて。

あ、これが"自分らしく"いられるということなんだなぁって初めて知った。

大きくもなく、小さくもなく、
そのままの大きさの自分。等身大。
等身大を受け入れてくれる人の存在。

まあこんな自分の在り方もありだよねと、
自分で自分の制御した動きを解除していく感覚

そんなたまの演じない時間の中で
「自分」はどこにでもあるんだな。
「らしく」はどこにでもあるわけではないけど。 
自分らしさを表現するときもあれば表現しないときもあるからこそ、わたしは「役者」なんだなって。

そしてその言葉を発して他者の心を揺さぶるともさんももちろんやっぱり「役者」だなぁって。


最近ともさんのおかげでお芝居ってなんだろうを改めてぐるぐる考えていて。
演じる時もあれば演じない時もあっていいんじゃないかなぁ…
役や他者になりすぎることも自分でありすぎることも少し違うのかなぁ…って。
他役との関わりの中でその場にあった大きさの自分らしくいられる持ち役でもって、相手の相手らしさを引き出せる振る舞いのことをお芝居だと、今の自分はそれをお芝居だと思っていたいなと。

不変的な自分、可変的ならしく。
その時々に相手に合わせて自分を変えていく。
それがお芝居の根本というか掛け合いの基礎のような。そんな気がしている。

生きるっていうのもそういうことなのかなって。
自分が生きていく中でなにかのふりをしたり自分じゃない自分を演じたりしながら、周りを見て自分らしくいられるような自分でもって誰かのその人らしさを引き出せるような世界で生きていきたいなってしみじみ思う。

話が大きくなっちゃったけど。

またともさんと話してお芝居すきだなとか演劇楽しいなって気持ちを共有したいし、一緒にお芝居したいんだよな。
ともさんといると自分らしくいられるからね。
ともさんもわたしと居てともさんらしくいてくれたらいいな。

楽屋でのツーショット。わたしはカメラを向けられるとどういう顔していいか分からないから写真に映るのが苦手なんだけどなかなかいい笑顔してるのはともさんと撮った写真だからだね☺︎

ともさんのおかげでわたしは自分らしくいるということを知ることができたんですけどね、
どうやら自分らしくってのは相手によって色んな大きさになれること、色んな等身大のサイズ感があるということがわかってきました。
わたしが等身大になれるような人々やほかの909劇団員さんとのお話はまた次の機会です☺︎


ぐるぐる考える役者 柴田ののか

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?