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オンナの哲学 -トラウマその2

小さな女の子を褒める言葉って?

かわいいね。お人形さんみたい。
やさしいね。女の子らしいね。
いい子だね。友達と仲良くできるね。

私はこのどれも言ってもらった記憶がない。
私が覚えているのは、「しっかりしてるね」これだけだ。

姉の2年後に生まれた私。
次は男の子だと思っていた父は、男の名前を用意して楽しみに待っていたらしい。でも生まれてきたのは私、女の子だった。

子どもの頃の写真には、ピンク色の服を着て長い髪をかわいく結んだ姉と、ブルーの服を着たショートカットの私が並んで写っている。
男の子が欲しかった父に、私は男の子のように育てられたのだ。

姉と同じ女の子なのに、どうして姉と違って男の子みたいな服を着せられ髪を切られるのか、不思議だった。「nonoにはこの方が似合うから」私の髪を短く切りながら、父が無邪気にそう答えたことを今でも覚えている。

子ども心に父の期待を察して、男の子みたいに振舞っていた。短い髪にTシャツとショートパンツで男友達と外を駆け回って遊んでいた。男の子みたいにすればするほど父は喜んでいるように感じていた。

周りの大人は、そんな私にかける言葉に困ったに違いない。
男の子と泥だらけになって遊んでいて、多少言葉遣いも荒くて、少年らしい爽やかさやはっきりした自己主張もあったかもしれない。
女の子が、女の子同士遊ぶ中で身に付けるのであろう“協調性”や“空気を読む力”や“愛嬌”を、子どもの私は身に付けられなかった。
「しっかりしてるね」は、そんな私を褒めなければいけない時の苦肉の策だったんだろうな、と、大人になった今なら想像がつく。

それを当たり前のように感じながら成長して8年も経ってから。父にとって待望の本物の男の子、弟が生まれた。
こんなにもあからさまに、と思うほどに、あっさりと、父の興味は弟にしか注がれなくなった。そしてもともと子どもに無関心のように見えた母も、弟にはかかりっきりになった。

まだ8歳だった私はとても驚き、混乱した。
父の望むように生きてきたのに、いきなりお役御免になったのだ。
これからどう生きていったらいいのか、わからなくなった。

唯一の手掛かりが「しっかりしてる」ことだったから、とりあえず優等生になってみた。勉強も頑張ったし、毎年クラス委員にもなった。クラスでも部活動でもリーダーシップを発揮し、先生にも友達にも先輩後輩にも一目置かれるようになった。
「責任感が強い」「自分をしっかり持っている」「頑張り屋さん」など周りから称賛されるようになったその頃、私を褒めないのは両親だけだった。

ではこれではどうか、と思ったわけではないけれど、人並みに反抗もしてみた。一人暮らしの友達や彼氏の家を泊まり歩き、クラブ活動やバイトのため毎日終電で帰った。両親は、家の手伝いもせずお前はなんて自分勝手なんだと怒って、私を責めた。私を心配しているようには見えなかった。
当時うちの近所は治安が悪く、夜遅い帰宅時には何度も車やバイクに追いかけられた。怖くて泣きながら迎えを頼んだある時、車で迎えに来た父が開口一番「勝手に襲われろ!」と怒鳴ったことは、今でも胸に刺さっている・・。

いい子だろうが悪い子だろうが、何をやろうが両親は私に興味が無い。
そう結論付けていよいよ自暴自棄になり始めた頃、父が亡くなった。

父の死にはネガティブなことを色々考えさせられたけど、唯一、私にとってポジティブだったのが「やっと母が、家族が私を必要とするようになった」ことだった。
家族の危機こそ「しっかりしている」私の出番だったのだから。

不謹慎極まりないながらもその頃の私には唯一の救いだったが、もちろん、この歪んだ“需要と供給”関係は長くは続かなかった。
10年そこそこで破綻し、それは私の“自分探しの旅”の始まりとなった。

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男の子が欲しくて私にその自分の理想を押し付け、用済みになったら見向きもしなくなった父。子どもには無関心で父の顔色ばかり窺っていた母。そんな両親の元で私は、アイデンティティを確立することができずに大人になった。

どんな自分であっても両親からOKをもらえなかったから、どの自分が正しいのかが分からない。自分の意見、感情ははっきりとあるけれど、それを主張し通す自信はない。
言うなれば、基礎がしっかりしていない土台の上に家を建てているようなものだ。外から見てどんなに立派でも、どんなに大きくなっていても、実はいつ倒壊するかわからない不安に常に怯えている。
そんな感じで、今も生きている。土台をしっかり固めようともがきながら。

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