広瀬鎌二SH-1の先進性と異常性
2023年11月18日から12月3日にかけて、日本建築学会建築博物館(東京都港区芝5丁目26−20)にて「ヒロカマ展~SH-1から70年、肆木の家から40年~」が開催された。
広瀬鎌二(1922~2012)は鉄骨造の住宅「SHシリーズ」で知られる建築家で、武蔵工業大学<現・東京都市大学>で長く教鞭と執った。極限まで細く単純な鉄骨構造を追求したSH-1(1953竣工)、鉄骨構造からブレースを排除することに成功したSH-30(1960竣工)が有名だが、最初の作品であるSH-1はほとんどゼロから鉄骨構造を追求しつつ、当時まだ高価で不足しがちだった鉄骨を節約するために、異常なまでに細くギリギリのディテールで構成されているのが特徴である。
しかし、私(すえまつ@nonnonnon19871)がTwitter<現・X>で広瀬鎌二のことを書いても全くといっていいほど反応がなかったので、現代においては忘れ去られかけている建築家といってもいいかもしれない。
広瀬鎌二についてはもっと言いたいことはあるのだが、どうせスルーされるのでここではあくまでSH-1にできるだけ絞って、ヒロカマ展で知ったり確認できたその異常性と先進性について解説したい。
※なお、本稿の資料として
「広瀬鎌二建築展 SH+」
「広瀬鎌二アーカイブス」
を使用しています。
一見なんの変哲もない柱
SH-1の異常性については、この柱の断面図だけでも十分示すことができるだろう。おそらく少しでも現場を経験した建築関係者なら困惑するはずだ。
「何でこんなことをしているんだ」と。
一見なんの変哲もない40角の鉄パイプに見える。実際にヒロカマ展で展示されたSH-1の原寸の骨組みを見ても、私はその異常性に気づけなかった。「うわぁ、めちゃくちゃ細いな」くらいのものであった。
この角パイプ、よく見るとLアングルを2つ合わせてビルドしたものになっている。これは当時コラム(角パイプ)が製品としてなかったことに起因する。設計当時、構造を担っていた佐藤徳重氏に計算させて生まれた形状らしい。現代では考えられない納まりである。
実はこれには隠れたメリットが存在する。実際に制作を担当した大住豊氏(MATELIER株式会社)によれば、もともと形鋼は歪みやねじれが残存しているが、2部材を重ね合わせて溶接することで、その歪みやねじれが相殺され、矯正しやすいという。
ともあれ、当初はシリーズ化するつもりのなかったSHシリーズはこの極限まで細い柱のプロポーションによって注目され、広瀬鎌二の建築家としてのキャリアを決定づけた。
ブレース
私が初見で「頭おかしいな」と思ったのがこのブレースの端部処理である。鉄筋を無造作につっこんで終り、という野性味あふれるディテールである。テーパーが切られてないため、当然ながら端部が降伏している(曲がっている)。理論的には降伏した部分は強度が落ちるため、あまり良い納まりとは言えないのであるが、たまたま近くにいた福島加津也氏(建築家/東京都市大学<旧・武蔵工業大学>教授)曰く「ちょっとくらい降伏してても許して」と精一杯のフォローをしていた。所員が同じような降伏するような納まりを持ってきたらブチ切れるんじゃないだろうか、と思うのだが、確かに余計なものが一切ない(必要なものまでない)メチャクチャすっきりした納まりではある。
降伏を評価した上での構造計算を行っているのなら全く問題ないし、実際のところもともと使われる235N/mm2という値も予期せぬ降伏状態をあらかじめ安全率として見込んだ値であるため、このような平屋の非常に軽い構造のオーダーであればそれほど危険性はないだろう。
そもそも軸がずれており、材の断面がもつ軸応力がきちんと効くかは甚だ疑問である。
寄稿している構造の専門家によれば断面上問題ないが、脆性的でガタツキがある納まりであり、揺れに対して全く考慮されていないとのことであった。
ブレースの納まり
まともな発想ならこの詳細図を見れば、
「ナットを先付溶接して、先端をネジ切りした鉄筋を現場で差し込んでいるんだな。めちゃくちゃ大変そうだなぁ」
と思うだろう。しかしそうではなかった。
ターンバックル
ターンバックルがあるようには見えない。展示されていない資料を含めて元所員と検討し「忠実に再現した」とされる実物大の骨組みにもターンバックルがないことから、この図面通りに建てられていないことは確定だろう。おそらくコスト削減など何らかの理由でなくなったと思われる。
ブレースの施工方法
上記図面のナットに付記されている注記はおそらく「溶接」であるが、ナットを母材に溶接することを示しているというよりは、ナットとブレース材(丸鋼鉄筋Φ6)を溶接するように指示しているように見える。当然この部分に溶接するためには、Lアングルを合わせて角パイプにする前に施工する必要がある。
つまり、ブレースのΦ6がビヨーンとついた状態でLアングルを溶接している。コーナーに至っては2本ともそうである。実物大の骨組みを施工した大住豊氏(MATELIER株式会社)にも確認した。この部分は見えるわけではないため、現代的にナットを先付したり、治具でナット止めすることもできたはずである。しかし、施工方法についても研究するためにこのようなディテールについても完全に再現した。頭が下がる思いである。
※この件については少し誤りがありました。補足のnote「誤解と確認(ヒロカマ展補足)」もご参照ください。
「ちゃんと考えられている」
設計者目線だとどう考えてもトチ狂っているな思わせるSH-1の納まりだが、実際の作り手はやや違った見方をしたようである。
本稿でたびたび出るMATELIER株式会社は、もともと鉄製の螺旋階段を主力とする金物施工会社である。普通の鉄骨加工会社では嫌がるような建築家好みの難しい納まりをむしろ得意とし、スチールワークの限界を心得た会社だ。
その会社の社長をして「ちゃんと考えられているな、と勉強になった」と言わしめた。
この鉄骨骨組みは、施工当時(1952~53)の感覚ですら鉄骨加工会社が嫌がり、サッシ加工会社が組み立てた。そしてこのMATELIERもスチールサッシュの仕事も請け負う会社であり、近しいものを感じたのではないか。
おそらくこれらのディテールは、広瀬鎌二本人だけが考えたのではなく、骨組みの施工を担当したサッシ加工会社と一緒になって考えた可能性が高い。彼らが作りやすい納まりになっているのである。
量産化を目指して
もともと広瀬鎌二の思想的なキャリアのスタートはイームズのNo.8であり「工業化住宅」にある。それは一般に流通する工業製品を使い、大量生産品の安い材料で地場の大工の技術でどこでも量産できる建築を旨とした。SH-1は試行錯誤の過程とはいえ、当時は町工場的な存在のサッシ加工会社とタッグを組むことで、実験住宅として設計した可能性が高い。その先には間違いなく量産化、プレハブ化があったはずである。
それは戦後の荒廃した日本において、質よりも量を求められていた時代の雰囲気そのものであった。このSH-1はそれに誰よりも早く取り組み、当時ほとんど誰も手を付けていなかった「鉄骨造の住宅」「プレハブ住宅」に先鞭をつけた画期的な作品だったのである。
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