『ミッドナイトスワン』と赤い靴 :光の中で踊るということ

久しぶりに衝撃的な映画体験をして、残しておきたくて、noteに登録までしてしまった(amebloから乗り換え)。ネタバレ有りです。

5回観て、小説を読んで、ようやく何か言葉を紡ぎ出してみようかなぁという気持ちになってきた。草彅剛くんの演技が大好きなことが直接のきっかけだったのだけれど、予告編動画で何度も流れる渋谷慶一郎さんの音楽の美しい旋律や、新人である服部樹咲ちゃんのあどけなさの残る横顔にも惹かれ、なにか「切なくて美しくて儚くて尊いもの」が観られるのではないかという淡い期待とともに、映画館に足を運んだ。

言葉が出なかった。重い。そう、確かに重い。

けれどそういうことではなくて。

LGBTQ+の当事者ではないけれど、身近にそういう存在を何人か知っている。シングルマザー(ひとり親世帯)、都会と地方都市、学校現場、貧困、格差、偏見、そしてバレエ。夜の街こそ身近ではなかったけれど、それ以外のテーマ系については多少は実態を垣間見てきたし、リアリティを感じることもできると自負していた。

きっと、もちろん、それも大事。でも、そういうことじゃなかった。

凪沙がいて、一果がいて、瑞貴がいて、リンがいて、早織がいて、実花がいて。光の中で踊りたいと、彼女達の誰もが一度は夢見ただろうし、今なお夢見続けてもいるのかもしれない。

映画冒頭で、凪沙たち踊り子が長い足を組みながら真っ赤なバレエシューズを履き、足首にリボンで結びつけている場面がある。凪沙のマニキュアや口紅。後半の、真っ赤なトレンチコート。勝負の瞬間にあらわれる情熱の「赤」は、純潔の「白」とともに、この映画で常に効果的に使われてきた色だ。赤を身につける時の凪沙の目には、「わたしは光の中で踊りたいのだ」というはっきりとした意志が感じられる。

自宅に帰り、水槽の中でゆらゆらと踊る、尾びれの美しい金魚たちを愛しむ凪沙。真っ暗な部屋の中で水槽は明るくゆらめき、金魚は自分自身であることや、そこにいることに何の疑問も持たず、ただ美しく存在している。けれど、artistique(人工的/芸術的)な美しさの金魚は受動的に生きるしかなくて、凪沙が餌をやらなければその命はつながれない。

中学生になったばかりの一果もまた、あの時点では誰かがきちんと世話をしなければ「生き延び」られない。それもまた、残酷なまでに現実なのだ。ただ、一果は凪沙と違って、白鳥になれる可能性を秘めていた。

金魚は美しい。でも、ずっと水槽の中。白鳥のように大空へ飛び立つことはできない。凪沙はそれを深く自覚していたのではないか。

童話の中で、きれいな「赤い靴」を履いて踊りたいと願った少女は、「不適切な場所」で光を浴びようとしたために、死ぬまで踊り続けるか足首を切るかの決断を迫られた。

靴を履かなかった早織は靴を履いてしまった娘の足首を切断しようとした。

一緒に踊れなくなったリンは愛する友に自分の靴を譲り渡した(最初のシーン、象徴的)。

自らは靴を脱いだ実花は、教え子が光の中で踊るために、靴を履き続けさせようとする。

そして、靴ずれをおこしヨタヨタと歩きながらも、いつか自分も光の中で踊るのだと、気丈に靴を履き続けようとした凪沙。

そして最後に、凪沙と同じトレンチコートに真っ赤なハイヒールを履いて、「表舞台」への階段を確かな足取りで一段ずつ登っていく、一果の後ろ姿。

生き続けることの方がおそらく大変なのだ。だけど、生き続けたその先にしか希望は、光は見出せない。一果は凪沙とリンのもとへいくことなく、おそらく自らの意志で引き返し、自らの意志で赤い靴を履き続ける覚悟をしたのだと思う。

そしてもう一度光の中へ。皆の思いをすべて背負って彼女が光の中で踊る。

リンの死も凪沙の死も、潔く、美しい。それだけに切なく、悲しく、また恐ろしい。なぜ彼女たちがと私たちの流す涙には、「死んでしまった、かわいそうに」といった憐憫ややるせなさだけでなく、彼女たちを殺した私たち(世の中)へのどうにもならない怒りが入り混じる。

凪沙は一果のために「自己犠牲」の精神で自らを捧げたのでは決してない。と、私は思う。凪沙は一果を手に入れることで、自分自身も光の中で踊りたかった。凪沙は、過去の、そして今現在の自分自身を救いたくて、一果を手に入れたかったのではないか。

もちろん一果を手段として引き取るという意味ではない。一果を閉じ込めることで母になろうとした早織と、羽ばたかせることで母になりたかった凪沙(と実花)。

ただ、「母性」という言葉への違和感はどうしても拭えない。母性、そうなのかもしれない。でも、何か違う。ただ、彼女たちは生きたかった。手に入れたかった。自らの存在を肯定したかったのだと、そんな風にわたしは感じた。

一果のためだとしても、それは自分自身のしあわせのためでもある。

子どもは、若い命は、未来への希望。自分の生きた証。そして、自分を「脱落者」「敗者」「怪物」ではないものに、肯定できる存在に、してくれるかもしれない光。それが一果だったのではないか。

内田監督が、小説版では描かなかったその先を描いたのはきっと。この映画をパンドラの箱のように見立てていたからなのかもしれないなんて、考えている。

この世の見たくないものすべてに蓋をして、箱の中に閉じ込めて、自らの見たいものだけに取り囲まれた「美しい世界」で生きていくことは、もはや私たちにはできなくて。「彼女たち」がそこに存在するということは紛れもない事実であり、彼女たちが光の中に解き放たれたいと願っているその声を、その叫びを、「私たち」は無視することはもはやできないのだ。そんなメッセージなのではないか、、、と。

トランスジェンダーをはじめ、この日本で生きにくさを感じているLGBTQ+の方々の現状に鑑みれば、現時点ではとても凪沙を死なせない選択をすることができなかったけれど。最後にパンドラの箱の奥底に残っていた希望は、きっとその先の未来へ私たちを誘ってくれる。

自分自身であろうとすればするほど、自分自身の心に身体を近づけようとすればするほど、「化け物」になっていく凪沙の悲しみ。「化粧」によって引き出された彼女自身の時につつましい、そして時に艶やかな美しさ。美しくあろうとすればするほど、醜悪な存在とされ、奇異な視線を浴びる悲しみ。魔法使いは現れない。

『美女と野獣』のように「実は美しい王子様でした」とか、ヨーロッパの昔話のように「貧しい農民の娘だと思っていたら実は隣の国の王女でした」とか。そんな大団円は決して訪れない。

美しくなればなるほど、ただただ「化け物」になっていく凪沙。

彼女が「さぼっ」てしまったのは、そんな残酷な現実に心折れたからなのだろう。

早織より一果のことを想っている。一果を羽ばたかせたいと思っている。自分の方が一果のことを愛している。「完全な」女性にさえなれば、早織に勝てるはずだ。

「完璧な女性」になったはず、全ての面で早織より一果の母として相応しくなったはずだと思っていた凪沙。「ただ女性として生まれただけ」の早織に負けるはずはないと思っていたかもしれない凪沙。実の母親や早織から罵倒されてもきっと頑張れたかもしれない凪沙。けれど、中学生の一果はまだ幼くて。一果のとまどいの表情の前で、凪沙は絶望するしかなかったのではないか。

これ以上どうすることもできないほどに、完璧に女性になった凪沙は、それでも一果を連れ帰ることはできなかった。一果のいない世界線に未来を見出せなくなるのは、必然だったのかもしれない。

けれど、生きる気力を失っていても、死にたかったわけではないはずだ。一果が訪ねてきてくれて、泣いてくれたから、彼女は死のうと思ったのだと思う。これ以上、「恥ずかしい」姿で生き続けたくなかっただろうし、最後に一番美しい自分でいたかったのかもしれない。

凪沙が一果と出会わなかったら。普通にお金をためて、普通に手術を受けて、普通にケアをして、生き続けていたのだろう、きっと。けれど、踊り子として年齢もギリギリで、ママのように独立するのかというのもわからない。女性として生きていくとしたら、まともな仕事もなくなるかもしれない。それでもなんとか片隅で自分らしく生きたのかもしれない。

でも、出会ってしまったから。出会ってしまって初めて、自分の中での「欠落」や「空白」が満たされる経験をしたんだろう。ただ、子どもは励みにはできても支えてもらう存在にすることはできない。少なくともその成長を待たなければならない。早織と違い、凪沙はそこは直感的に(自分自身の母親との関係からも)わかっていたのだと思う。

凪沙は靴を脱ぎ、大空へ飛び立った。一果は赤い靴を履いて、地上で踊り続ける。

そしてきっと。空と地上をつなぐ場所として、海があるのだろう。作品の中でも海は、生と死の出会う場所として象徴的に描かれている。

水は命をつなぎ、命を奪う。



今日はここまでにしよう。また、思いついたら別の観点から書きたい。

何度でも、何度でも、戻ってきたい作品。

久しぶりの、言葉を奪われるほどの圧倒的な映画体験。

みなさまもぜひ、ぜひ、映画館に足を運んでみてください。


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