見出し画像

私、ちゃんと笑ってる

小学校高学年の頃から中学、高校、大学にかけて、写真のなかの私はいつも口をギュッと結んでいる。

その顔がキメ顔だったわけではなく、笑うことができないほど心に闇を抱えていたわけでもない。

自分の笑った顔が好きになれなかったのだ。


小学5年生くらいなって、歯もすっかり生え変わり、下顎が成長してくると、私は父に似た受け口になった。そして、父そっくりの細い顎には、母譲りの大きな歯が収まりきらず、歯は窮屈そうに凸凹に並んだ。

学校の歯科検診では、歯並びのところにいつもバツがついた。

できるだけ歯を見せないように、大きな口を開けて笑わなくなった。

カメラを向けられると口を閉じていたのもそのせいだ。

歯科矯正はお金のかかることだと、子どもながらにわかっていたから、歯科矯正をしたいとは親に言い出せなかった。

痛そうだし、歯科矯正をすると変な器具をつけなきゃいけないし、矯正なんてしたくない、と強がっていた。


歯科矯正をしないまま、私は24歳になる。

24歳になったばかりのある日、矯正歯科に電話をかけ、歯科矯正の見積もりを作ってもらうことにした。


歯科矯正をしようと思ったきっかけはいくつかある。

歯科矯正をしたい、歯並びをきれいにしたいと10年以上思い続けていたが、ようやく歯科矯正に踏み切れたのは、まず自分で稼ぐようになって、お金を自由に使えるようになったから、というのが大きい。

両親ともに高卒で、父はコンクリート工場の作業員として勤め、母は実家の家業をパートとして手伝っていた。両親はたくさんの時間と愛情を注いで私と妹を育ててくれたけれど、家計にそれほど余裕がないことはよくわかっていた。

働きはじめた今なら、両親に迷惑をかけずに、歯科矯正ができると思った。


それから、私とほぼ同じ歯並びの妹が歯科矯正をしたというのも、私の背中を押した。

妹は、自身の歯並びであれば保険が適用になることを調べ、地元で評判のよい、安くて腕の良い歯科医を見つけてきた。通常100万以上かかる矯正を30万ほどでできるとプレゼンしたうえで、末っ子らしく両親に甘えて、見事に歯科矯正をさせてもらう権利を得ていた。

歯科矯正しはじめたのは妹が高校生の頃で、私が就職した頃には、妹の歯科矯正はほとんど終わっていた。きれいに並ぶ妹の歯を見ながら、私もそうなりたいと思う気持ちが強くなった。


ただし、私や妹のように歯並びだけでなく、顎自体の噛み合わせが悪い「顎変形症」の場合、保険適用になるのはいいのだが、入院を伴う外科手術が必要となる。

下顎の骨をわざと骨折させる手術、と聞いただけでゾッとした。

妹はこの手術のために数週間入院したし、手術後もほっぺが大きく腫れ上がり、2ヶ月ほど流動食しか食べられなかった。


そんな様子を間近で見ていても、歯科矯正をしたいという思いは揺らがなかった。

妹が手術で入院していたとき、同室に40代くらいの女性が二人、同じ手術のために入院していた。

二人は、初めての手術で不安そうにしていた妹を温かく励ましながら、「若いときに歯科矯正させてもらえるのは羨ましい」と話していた。
二人は子育てが落ち着いたタイミングで歯科矯正を始めたらしい。

私の周りでは、子どもの頃に歯科矯正をしている同級生も多かったから、20代からの歯科矯正でさえも、今さらきれいにしたって…という気持ちが当時の私にはあった。

けれど、40代で歯科矯正をはじめた二人を見て、今さら…とは思わなかった。

これからの人生のなかで、いちばん若いのが今なのだと当たり前の事実に気づいたのだ。


妹の歯科矯正がほぼ完了した頃、歯科矯正をしたいんだ、と恋人に相談すると、賛成してもらえなかった。
外科手術が必要と話したから、きっと不安だったのだろう。

今だってかわいいのに、これ以上かわいくなってどうするの?と恋人は私に言う。
恋人は、親バカならぬカレシバカだった。

私にはかわいいと思えないからだよと話しても納得してもらえないだろう。


あなたの隣に並ぶのにふさわしい人になりたいから、という理由もある。

でも、それだけじゃなくて、私は私のためにきれいになりたいんだと思う。

誰のためでもなく、今からでも、きれいになりたい。

思いっきり笑いたい。

そう話しながら、私は自分の中から出てくる言葉に驚いていた。
そうか、私、思いっきり笑いたかったんだ、と。

私は、自分のなかにくすぶっていた本当の声を聞いた。



歯科矯正をはじめることを選んでから5年が経った。
手術も終え、矯正器具も外れ、今は歯の裏側に安定させるための針金がついているのみで、歯科矯正はほぼ完了している。

コロナ禍でマスク生活になったせいで、せっかく歯科矯正をしても、きれいになった歯を見せる機会はいまのところそれほど多くない。

歯科矯正をして歯並びがきれいになっても、小さな目、丸い鼻はそのままだし、コンプレックスが全てなくなったわけでもない。

それでも、今の私は、ちゃんと笑えている。
カレシバカから夫バカになった夫と「今日もかわいい!」と言い合いながら。