見出し画像

文章は、心のどこかを削って書くものなのかもしれない。

先月から、noteにエッセイの投稿をはじめた。以前から文章を書くことは好きだったので、少し長めの日記などは記してはいたものの、他人様に見せた経験なんて当たり前になかったので、創作物を開示するドキドキ感を覚えながら、執筆と投稿を行っている。


日々持て余す気持ちの吐露のつもりで投稿を開始したのだけれど、スキやコメントなどの思わぬ反応をいただき、ありがたい気持ちで一杯になっている。文章を書くのは楽しい。反応をいただくのは、嬉しい。エッセイにしたいことも次から次へと思いついてはいて、執筆している最中に「次はあのことを書こうかな」などと考えながら、思いを形にしている。エッセイが完成したら、また次のエッセイへ。そうして投稿を途切れさせずに、書いていければいい。心のままに、書いていければいい。


書いていければいい。あるがままに。
そう、思ってはいるのだけれど。
実情としては、そうもいかないでいる。


書きたいことは多い。執筆も楽しい。一旦書きはじめたら、言葉を紡ぐ手は止まらずに動く。
しかし、そうしてエッセイを書き終え、投稿を済ませた後、さあ、次のエッセイを完成させようか、と瞬時に切り替えることができないのは、心のどこかに、ポッカリと穴が空いたような感覚に襲われるためだ。なにかがすり減ったような、なにかを消費したような、なにかを掃除機で一部吸われてしまったような。そのような、何とも言えない感覚に、ちょっとした虚脱感を覚えて執筆しているスマホに手が伸びないでいるのだ。


重厚な、考え抜かれた文章を著しているかといえば、おそらく違う。心情のスケッチや日常において感じていることを(他人様に読んでいただくという前提はありながらも)素直に書いているだけなのだ。
そうでありながら、やはりエッセイを脱稿した後には少しだけ魂が抜かれたような感じを覚えて、回復を待たないと次の作文へと移ることができない。普通に日々を過ごして、ドラマを見て、散歩して、ご飯を食べて、眠って。そうやっていると少しずつ心が修復されてきて、次のエッセイを書こうかな、書けるかな、といった気持ちになれる。


回復にかかる時間は、まだ判然としない。一晩眠れば創作意欲に溢れていることもあるし、二日三日経っても、穴が埋まらない感覚が直らないこともある。自分がまだ、外部に向けた創作物の執筆に慣れていない、というのも一因ではあるのかもしれない。未熟なために創作の器がガラス製ですぐに壊れてしまって、元通りに修復するのに手間がかかるせいかもしれない。とにかく、連続して投稿することはできないでいる。


吐露したい心情は、たくさんあるのに。もどかしいけれど、無理に書こうとしても、よい文章は生まれない。本当に意味の薄い、今日はお散歩をしました、楽しかったです、というレベルの文章が生成されるだけなのだ。それがもしAIによる執筆だとしても、めちゃくちゃつまらないとダメ出しを食らう品質のエッセイである。


文章とは、心のどこかを削って書くものなのかもしれない。少なくても、私にとっては。これを書いたら、またしばらく次作を書くのに時間が必要なのだろうか。書きたいことは、結構あるのになあ。


へなちょこエッセイ作者の、悲しい虚弱さである。

いただいたサポートは無職が大事に使わせていただきます。