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文章が読まれるということ

三日ほど前から、noteにエッセイや詩のようなものを投稿している。暇なこともあって、日々色々なことを考えてはメモしたり、短文でまとめたりしていたのだけど、それらを意味のある、自分的にも意義のある文章にしたくてエッセイを書きはじめ、拙いながらも思いを書き綴っている。そして、書いたからには自分以外の誰かに読んでほしいな、と思い、ポツポツと投稿を続けている。


文章を書くのは、楽しい。自分的によい表現が思いついたときは、思わずニヤリとしてしまう。立派な環境がなくても、スマホさえあればどこでも手軽に執筆ができるし、そのままサイトに投稿まで済ませることができてしまう。ノートも、ペンもいらない。指先ひとつで、自身の考えや物事に対する感想などを紡ぐことができ、ネットの海にそれらを解き放つことが可能になっている。


そのぶん、人目について品評される怖さはついてくるのだろうけど、誰でも表現活動が容易にできて、年齢も性別も関係なく認められる可能性があるのは素晴らしいことだと思う。文章を書くのは、楽しい。そして書いた文章を読んでもらえることは、評価してもらえることは、とても嬉しくてすごいことだと投稿をはじめて改めて感じている。


簡単に創作ができ、成果物を見せられる。その環境が整えられている、今の時代。

それだけにコンテンツは世の中に溢れていて、次から次へと新しい作品が生み出されていく。プロだけでなく、多くのアマチュアが作品を発表して、そのなかには様々な手段でお金を貰っている人もいる。プロとアマチュアの境目が、あやふやになっている時代でもあると思う。


動画に音楽、写真にマンガ。数えきれないほど色々な種類のコンテンツがスマホを触るだけで目に飛びこんできて、魅力的なコンテンツの多さに思わず目眩がしそうになる。小説や詩などの文章による創作物だけに限っても、本当に数多くの作品があるのだ。noteだけでも、そう。魅力的なエッセイに、心動かされるような詩。夢中になって読んでしまうような、素晴らしい小説。日々新たな作品が投稿され、読者の目に触れる。多岐にわたるジャンルの作品が「自分を読んで!」とアピールしていて、読者はそのひとつひとつから選び、目を通していく。


そのnoteの片隅に、自分の文章がある。エッセイや詩、自分の思いを形にして投稿したものがたしかに存在していて、アクセス状況を確認するたびに、自分の作品が読まれていることがわかる。読んでもらっていることが、わかる。それが嬉しくて、楽しくて、そして、すごいことだと心の底から思う。私の思いが、誰かの心に触れているんだ。ひょっとしたら、今、この文章を書いている瞬間も。


私にはまだ、note上のフォロワーがいない。フォローをしていないし、投稿をはじめたばかりでもあるから当たり前といえば当たり前ではあるのだけど、繋がりのある方が、まだいない。それでも、アプリやサイトでアクセス状況を見ると私の文章を読んでくれている方がいて、スキを投げてくれた方もいる。

noteに数多と存在している作品。素敵な作品が、本当にたくさんある。そのなかから私の書いた文章を見つけてくれ、最後まで読んでくれたうえで、スキという形で思いを届けてくれた方がいる。それが、震えるほどありがたい。もっともっと、書きたいと思える。


この文章を読んでくださった、あなた。
星の数ほどあるコンテンツのなかで、私の文章に出会っていただき、ありがとうございます。
また、書きます。楽しんで、書きたいと思います。
ふたたびお会いできたら、とても嬉しいです。

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