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無理せずに書く、自分の心情。

私のエッセイは、主に心情の吐露を目的にしている。日常で感じたことを整理するために文章に起こし、心に浮かんだ、フワフワとした掴みどころのない感情に形を与えるべく、執筆を行って自分というものを見つめ直していく。内面や自身の境遇において、表に明かしていない部分は当然あるけれど、嘘はついていない、つもりだ。正直に生きている。ありのままの思いをエッセイにして、読んでいただければ嬉しいなとワクワクしながら、日々ポチポチとスマホに文字を打ち込んでいる。執筆には糖分が必要だ~!と甘いお菓子でも食べながら。甘いコーヒーも、たまに追加する。


ありのままの思い、というのがエッセイの執筆においては重要だと感じている。私にとっては。自分自身を偽ったり、自分を大きく見せようとしても(よほどの技量がなければ)おそらく人を惹きつけるような面白い文章にはならないし、なにより執筆が続かなくなるように思う。

知識や表現力、想像力のあるプロフェッショナルであれば、見ていないことも見たように語り、存在しない人を目の前にいるかのように描写し、遭遇していない場面も豊かなイメージ力で細部まで描くことができるのだろうけど、私は執筆経験の浅いアマチュア中のアマチュア(しかも無職)なので、そのような芸当はとてもじゃないけどできはしない。見たこと、感じたことを書くしかなく、自分を大きく見せることも、自分を別人のように飾ることも難しいので、人目にさらす文章であるというのは意識しつつも、心情を無理なく表現することに徹している。


無理をしない、無理に書こうとしない。それは、趣味としてのエッセイの投稿には大切な部分ではないかと感じている。自分をごまかしても、どこかで心に亀裂が入ってしまい、執筆自体が楽しめなくなってしまう。それは、最も避けたいことのひとつだ。


面白い文章を書きたいと思う。衆目を集めるような、「よっ! スーパーエッセイスト!」「眩しすぎるエッセイだぜ!」と褒め称えられ、「そうですか~エヘヘ」と満足感に満たされるようなエッセイが書ければ、最高だ。しかし、そのためにプレッシャーに押し潰されては元も子もないし、ウケる文章をあえて目指してしまうことで、失われてしまうものもあるように思えてならない。私はまだ、エッセイ書きとしては初心者も初心者なのだ。読者の方々に少しでも楽しんでいただけるように頑張りはするけれど、注目されなくてはならない、認められなくてはならない、という重圧は、重りとして私自身を苦しめる。おそらく。


私はエッセイを通して、私自身と向き合う。その過程に嘘があれば、その行為自体が意味の薄いものになってしまう。創作意欲の原動力が虚栄心では、執筆という行為がどこか悲しいものに変わってしまう。それは、嫌だ。私はエッセイを書くことを、純粋な楽しみにしておきたいのだ。少なくとも、今は。


今回も、充実した執筆活動だった。これをお読みになった方が楽しんでくださっていたらいいなあ、と思いながら、筆を置く。また、お会いしましょう。

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