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実家にて。

なるべく家族に心を開かないようにしていた。自分を守るために。

わたしは、家族の一員ではなく、個人でありたかった。自分の気持ちを話せば話すほど、母の言葉、妹の言葉の影響を受けやすくなる。またも家族のしがらみから離れられなくなって、自由に動く勇気を失うのが心底怖い。

特に、母と次女は、考え方の食い違いが起こると、論破する勢いで、ぐわっと、自論を発する。そんなに、怒らなくても…と思う。

しかし、自分自身の考えも、母、妹の考えも、それぞれの生きている環境から見ると、筋が通っているように思える。分かりあうことの難しさを実感した。


自分の気持ちを言葉にして話すということは、少なからず、相手に踏み込むことで、相手の考え方を変えようとするものでもあると思う。

そのように考えると、自分のなかで、独自の哲学を完成させて、それによって苦しむことが減れば、もはやリスクを冒してまで、だれかに気持ちを話す必要なんてないんじゃないかとも思ってしまう。

たとえば、猫は言語を持っていない。だからこそ、無理に相手を変えようとせず、気ままに、となり合ってからだを温めあったりもできるのではないか。大事なのは、話すことではなくて、ただ黙って隣にいることなのではないか。

そう思ったけれど、今日、睡眠不足を解消すべく、お昼にベッドに寝転んで、軽く眠っていたら、なぜか、自分の気持ちの言えなさで涙がどばーっと出ていて、話したい気持ちも大切にしなきゃな、と気持ちを改めた。

話したい気持ち、話したくない気持ち、どれもこれも、まずは毛布に包むように、優しく、優しくしたいと思う。



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