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死ぬこと=自分を忘れること

自分を忘れること。

生きていることと、死んでいること。
全体としてみれば、大して違いがないのではないか、と思います。

ここ最近、死ぬことなんて、意外と簡単にできてしまうから(方法としては)、そんなに力んで生きなくても、いいんじゃないか、という、崖っぷちの思考で過ごしていました。

いつでも、人生を終わらせることができるけれど、
でも、その前にこれをやっておこっかなぁ…の繰り返しで、死ぬことが先延ばしになっていく。

ただ、ずっとネガティヴで過ごしていたからか、つい先日、いよいよ限界を迎えてしまい、

まず第一に、となりの友達に声を発して話しかけることができなくなりました。

別に、生きなくてもいいと思っているのだから、自分のなかから、無理にエネルギーを搾り出して、話しかけるほど、がんばらなくてもいいんじゃないか、と考えてしまい、

生きる気力を出していくことの意義が分からなくなってしまったからです。

けれど、がんばらなくていいと、何もしなくてもいいと思うほど、心は行き場がなくて、重苦しくなり。

きっと、死に対して、行動を起こしていくことに迷いがなく、納得をしていれば、

そこに心の行き場ができて、気持ちが楽になっていくのだと思います。

ただ、私は、いくら簡単に死ぬ方法が、たくさんあると知ったとしても、

いざ、行動に移すだけの、意志はなかったみたいでした。

ですが、ここで、自分にとって都合のよい思考が出てきて、

それが、

・死ぬことと生きることに、区別をつけなくてもいいということ

・死ぬことと自分を忘れることは同意

という考え方で、

それだったら、今私は、どんな方法で、自分を忘れることができるだろう…と考えてみるようにしました。

たとえば、お酒に溺れてしまう人は、
生きるのが苦しくて、自分を防御して生きていくのが苦しくて、自分を忘れたくて、

理性をバグらせてまで、お酒を飲み続けてしまうのではないか、と思います。

たとえば、友達と笑い合って話せる時間は、
自分の荷を下ろして、何もかも手放して、自分を忘れることができる時間であるとも思います。

自分を忘れる方法の一つとして、死という手段があるというだけで、

もっと、楽な方法があるのならば、その方に流れていこうと、

noteを書くことも、
だれにどう読まれるか、他者が自分を見ているというイメージを持たずに、

ただ、思うままに、手を動かせたら、それは、自分を手放していることになるんじゃないか、と思います。

今日は、「はじめアルゴリズム」という漫画を、大学の図書館で読みました。

主人公は、数学に魅せられた、少年でした。

その子は、ただ、数学というツールを介して、世界を知っていくことばかりを考えていて、

私も、何もかも忘れて、数学、物理の世界に没頭するのも楽しそうだなぁと思ったのですが、

もちろん、私はその少年とは違い、
物理の世界に没頭し続ける体力も度胸もなくて、

それでも、今この瞬間、自分を忘れていれば、自分を守ることに必死にならなければ、それはそれで、いっか、とも思います。

このごろ思うのは、「長生きしてね」と、安易に伝えるのは、少し無責任でもあるんじゃないかということで、

それよりも、今、心が軽くいられることの方が、自由に動いていけることのほうが、大事な気がするんです。

そう思うと、自分自身も、いつも、この時代を生き抜くために、不安を感じながら、必死に生きていたけれど、そんなことも、どうでもよく感じてきます。

資格勉強を継続することさえも、手放してみたら、何をしてもいいんだと、思えるようになり、気持ちが楽になりました。

自分に対しての評価は辞めて、もっと気ままに過ごしてみようと思います。








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