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目撃される「戦争」と自己責任論

有責性とサバイバーズ・ギルト

 まるで震災時のテレヴァイズド・カタストロフのような構図の中で、なすすべなく惨事を傍観してしまった私は、心の底に後ろめたさをわだかまらせたまま、今日もまたルーティンワークをこなす日常的な時間を過ごす。

 テレヴァイズド・カタストロフ…。

 私たちは、どんなに遠隔地で起きた惨事であっても、《目撃=体験》が可能な世界を生きている。

 テレビだけではなく、インターネットが登場したことで、私たちがメディアを通してリアルタイムで惨事を体験する可能性がさらに広がった。

 同じ時間を共有しながら目撃した出来事に対して、私たちは相応の当事者性を感じざるを得ない。

 けだし、相応の当事者性は、相応の有責性につながる。

自己責任について

 自分の生活を犠牲にしておこなわれる過剰なまでの「貢献」は、こうして背負い込んだ「有責性」の重荷に対する防衛機制なのだろうか。

 たとえば「喜捨」、たとえば「献身」、たとえば「奉仕」。

 もちろんこうしたものの中には、「社会貢献」としてポジティブに捉えうるものがたくさんある。

 ただ、「自分の生活を犠牲にする」という側面が肥大化し、うしろめたさや罪障感を打ち消すための自己処罰に転位してしまうと、自尊感情が損なわれて生活が破綻していったり、自傷行為や自殺などの自己破壊を行ったりという悲劇に結びつきかねないところがある。

 そういう意味では、社会的な問題に対する無関心や日常生活への埋没の方が、こうした「有責性」に対する防衛機制としては、害が少ないのかもしれない。

 日常性のバイアス。

 もはや埋没した記憶となりつつあるが、ナイフを持った男に呼びかけられた日本人の有権者(=主権者)である私たちには、およそ1億分の1という重さで応答責任が発生したわけだが、「自己責任」という言葉はそれを切断するために機能する。

 「自己責任」という言葉を使うことで、テレビの向こうの惨劇と〈いま・ここ〉を切断し、自らの《当事者性=有責性》を否認することができたのだ。

 そうしてあの呼びかけは、埋没した記憶となり、やがて消去されるのだろうか。




※2015-02-06「サバイバーズ・ギルトと自己責任論」による

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