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性スペクトラムと n……個の性

 教員になりたての1980年代末、大学時代に読んだ『パンツをはいたサル』とか『セクシィ・ギャルの大研究』などカッパサイエンスの本を中高一貫男子校の国語の授業で取り上げ、あるときは必読図書に指定した。
 ぎりぎり昭和時代だった頃の話であり、男子生徒を相手に挑発的な試みをしてしまった20代若手教員の勇み足として容認していただければ幸いである。
 どちらも読み物として抜群の面白さがあるわけだが、当時は京都精華大学の教員をしていた上野千鶴子の『セクシィ・ギャルの大研究』は、「先生、今回の必読書、本屋さんで買うのが恥ずかしいです…」という相談が中3男子から持ちかけられたことを含め、生徒たちの間にとりわけ大きな波紋を広げた。
 ジェンダー(社会的性差)という考え方を男子校の中高生が受け入れるには、あまりにも時期尚早だったということなのかもしれない。

 しばらくして、四方田犬彦の「性転換手術が認められた日」という新聞記事を教材にした時には、『セクシィ・ギャルの大研究』に書かれていたようなジェンダー(社会的性差)という考え方だけでは捉えきれない性差の問題の幅広さや奥深さについて、中高生と考えることになった。
 関連する文章を小論文の過去問から探していくと、ヒトの性染色体の組み合わせがXXとXYの2種類だけではないという文章に遭遇したり、胎児の脳の性差が黄体ホルモンの影響を受けるなどという文章に遭遇したり、性差の捉え方が大いにゆさぶられる事態となった。20世紀の終わり頃の話である。

 21世紀に入って長谷川眞理子の「オスの戦略 メスの戦略」が国語教科書に掲載された。性差について、進化生物学的な観点から考察した文章だ。
 「適応度」の違いによって生じる繁殖戦略の差異が「性的対立」に結びついていることを平明に論じた文章である。
 「適応度」の違いというのは、子どもの数のギネス記録は、女性の場合が69人で、男性の場合だとが888人になるという話に示されるような明瞭な違いである。さらに言えば、男性の888人という数字の嘘っぽさ、虚構(つくりごと)めいた気配の中にも、繁殖のあり方の違いがにじみ出ている。
 少し雑な説明だが、DNA鑑定ができなかった時代、男性にとって、生まれた子が自分の子であるという証明が難しいという事実の中に、繁殖のあり方の違いが端的にあらわれている。
 高校国語でこういう文章を読むことにどういう意味があるのかということが問われるわけだが、ジェンダー研究とはまったく異なる視角から性差についての既成観念がゆさぶられる考え方ではあった。

 そして、最近、カーラジオを聞いていたら、性スペクトラムという話をしている学者がいた。(特集「生物のオス・メスの在り方とは? 生物学から考える『性』の本質」

雌雄を二項対立的なものではなく連続する表現型「性スペクトラム」として捉えることで性を再定義する

科研費 新学術領域研究 平成29〜33年度「性スペクトラム―連続する表現型としての雌雄」

 性は、雌と雄の両極の間にある連続するスペクトラム上の位置として決まり、オス化のレベル(強弱)やメス化のレベル(強弱)として定量的に議論できるというのだ。しかもその位置は、移動が可能だという。

 かなりラディカルな性差の捉え直しである。

 しかしながら、LGBTがLGBTQやLGBTQ+などへと増補改訂され、LGBTTQQIAAPのような肥大化した文字列へと変容していく流れの中にあっては、不徹底の感は否めない。性差は数直線上にお行儀よく連続して並ぶようなものではないはずだという直感が、科研費の成果に対する疑いの眼差しを醸成する。

 そう考えると、1980年代の半ばに内田道雄先生の大学院の授業(日本近代文学)で読んだ『アンチ・オイディプス』(ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ著/市倉 宏祐訳)の「n個の性」というヴィジョンは、きわめて先駆的なものだった。
 刊行されるや否や、日本近代文学の授業で一冊まるごと取り上げた内田道雄先生の慧眼に、今さらながら驚嘆せざるを得ない。



             未


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