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君たちはどう生きるか:宮崎駿が描くサバイバーズギルト【ネタバレあります】

 ジブリアニメの最新作「君たちはどう生きるか」の冒頭部分で宮崎駿が選んだのは、戦後日本のカルチャーが繰り返し描いた定型的なシークエンスだった。
 記憶に新しい人気アニメーション、「進撃の巨人」や「鬼滅の刃」と同じように、肉親に訪れる突然の悲劇を描く鮮烈なシーンが展開し、主人公が「サバイバーズギルト」―生き残ったことに対する罪の意識―を抱えることによって、物語は始動する。無力感と罪悪感の中でうつむく主人公たちは、「なぜ生き残ったのか」、そして「生き残った自分はどう生きるべきなのか」を問い続けることになる。
 この定型的なパターンを、古稀を過ぎた宮崎駿は「君たちはどう生きるか」という新作で採用した。病室に収容された母が炎に包まれるのを、高台にある自宅から遠望するわけだが、それはまるでテレビを通じて惨劇を目撃し、なすすべもなく傍観するしかなかった東日本大震災の時の私たちのような無力感を主人公にもたらしている。大慌てで着替えて現場に向かう主人公だが、未成熟で危機を打開する力を持たない彼は、致命的な遅れを取り戻すことができず、焦燥感の中で母を“見殺し”にすることになる。
 こうした無力感は、「戦争」であるか「地震」であるか、あるいは「圧倒的な暴力」であるかという原因の具体的な様相の違いをこえて、生きている者(生き残ってしまっている者)に多かれ少なかれ通有するものだ。

 「君たちはどう生きるか」という物語の始発点にもまた、こうした惨劇が用意されていて、それが物語全体を支配し、主人公の運命を翻弄し、観客の心を引きずりまわす。

 引きずり回されながら観客席で私は思うのだ。

 なぜこの定型的な枠組みを、もはや巨匠の名をほしいままにしている宮崎駿は採用したのだろうか?
 一度は引退を表明した彼が、なぜこのような映画を今、生み出さねばならなかったのだろうか?

 これが彼の集大成であれ、あるいは新たな始まりであれ、彼がサバイバーズ・ギルトのテーマを確信犯的になぞっているという事実は消えない。
 そして、サバイバーズ・ギルトという問題系は、サバイバーとしての誰かがどう生きるかという問いではなく、「君たちはどう生きるか」という問いとともに提示されている。

 この問いは、いったい誰がどこから、誰に向かって発している問いなのだろうか。

 サバイバーズ・ギルトが、生きている者(生き残ってしまっている者)に多かれ少なかれ通有するものだとすれば、「君たちはどう生きるか」という問いを“わたし”はどう受け止めたらよいのだろうか。



              未

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