生成AIが世界を変えつつある現実を前に、中高生に望むこと
高校生対象の出前授業でChatGPTのデモを見せ、生成AIの出現と社会の変化、教育の変化についての話をした上で感想を求めると、おおよそこのような感じの文章が届きます。
バランスが取れた、きわめてまっとうな感想です。
しかし私は思うのです。
「これは、“正解”として書かれた感想なのではないか」と。
真面目に勉強に取り組んでいる生徒や学生が、教室で発問を受けて発言する際にしばしば陥りがちなのは、「大人が考えている“正解”を当てるゲーム」としてのルールを内面化してしまうことです。
結果として、ChatGPTが書きそうな、きわめてまっとうな「解答」が発話されたり記述されたりすることになります。
こうした学習を繰り返すと、自分より上位の者の意向を「忖度(そんたく)」することに最適化された思考パターンを習得していくことになりかねません。
では、ChatGPTのデモを見せられ、生成AIの出現と社会の変化、教育の変化についての話を聞いた高校生に、私はどのような「感想」を期待しているのでしょうか。
私が自分の「期待」を書き、これからその通りの「感想」が届けられたとしたら、これもまた「忖度」になってしまうので、不用意なことはできないわけですが、ここはひとつ、そういう危惧には目をつぶって書いてみましょう。
私が期待するのは、「評論」する前に「行動」することです。
生成AIを使う前から、「バランスを理解し、適切に使用する方法を考えていく必要がある」などと言ってほしくないのです。
もちろん「使う」と言っても、「自分の学校について聞いたらデタラメな回答をしてきた。やっぱりAIは使えないね。」などとわかったようなことを言ってしまうレベルでは「使った」ことにはなりません。
わかったようなことを言う(評論)前に、使い倒すこと(行動)を期待したいのです。
したがって、仮にまだ使っていない段階で「感想」を書くとしたら、「やってみよう!」と自ら足を一歩踏み出すための言明をしてもらうしかないでしょう。
たとえば、「生成AIの可能性に驚きました。これから私も試してみようと思います。」ぐらいのスタンスの感想であれば、まずまずです。
ただしこれも、太宰治の「走れメロス」の感想文に、「これから私も心から信じ合えるような友人関係をつくっていこうと思います。」と書いてしまう場合のように、どこまで内実をともなったものであるのかと考えると、不安が残ります。
たとえば、こんな「感想」はどうでしょうか。
22世紀に向けて流れていく時間を生きていく中高生なのですから、これぐらいの“前のめり感”が欲しいです。
そして、実際に使うとなったら「使い倒す!」というぐらいの気概が欲しいのです。
未
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?