Beyond the Egoism(初稿)
0:プロローグ
私には二つの思い出がある。
一つは、小学生の頃の思い出。
もう一つは中学生の時の思い出。
私の〈同化〉と〈漂白〉に関わる思想は、この二つの時点のリンクによって形成されたと言っていいだろう。
そして、その思想を形成する過程で、私は決して人と〈同化〉せず、また他者によって〈漂白〉もされない自分自身というものがどこにあるのかを探求しようとした。
私にとって〈同化〉するとは、自分が自分でなくなることであり、自分が暴力的に破壊されることであり、私自身の身体や精神に土足で踏み入れられることであって、つまりは苦痛そのものであった。しかし、多くの人はさも当たり前のように〈同化〉と〈漂白〉を繰り返しながら、私の目には飄々と人間関係を渡り歩いているように見えた。実はそのような人たちにも、傷つきがあり、呻きがあり、動揺があり、嗚咽があり……およそ無数の苦痛を感じていたことを発見するのであるが、そのことは幼い私には理解が難しいことだった。
今現前してある痛み苦しみをどうにかすることだけが、私には問題だった。
なぜ、他の人と「同じ」ように学校に通わなければならないのか。
なぜ、他の男子と「同じ」ように振る舞わなければならないのか。
なぜ、私は誰かと「同じ」何かであるだけで、その人たちと仲良くしなければならないのか。
そもそも、私と誰かが「同じ」であるとは、本当には言えないのではないのか。
誰にも相談することができず、たった一人で考え続けて、今年で三四歳になる。
〈同化〉と〈漂白〉をどう乗り越えられるだろうか、と言う問題は、未だに解けていない。
六郷土手から多摩川と、その向こう側の川崎市街を眺めながらふらふらと散歩しながら、私は久しぶりに二つの思い出のことをどういう訳か考えていた。冷たい風がびゅうびゅう吹いている中でも、時々ランナーとすれ違う。彼ら・彼女らのストイックさを見ていると、私のような者がどれだけ自分の課題にストイックに向き合ってきただろうかと、つい落ち込んだ考えを抱いてしまう。
私はここまで生きてきたが、狡賢くなるばかり、問題課題から上手に逃げ仰せる術を手にいれるばかりで、ちっとも前に進んでいないのではないだろうか。
田舎から東京に越してきては見たものの、親がなけなしで渡してくれた生活費はとうに底をつき、日雇いで稼いだお金もすぐに食べるものや煙草、交通費、飲み屋に溶かしてしまった。さて、家賃と光熱費はどうしたものか。最悪、光熱費は延滞すれば何とかなるかもしれない……だが、こんな風に生活と飲み食い歩きにかまけているばかりで、自分の本当にしたいこと、しなければならないことにちゃんと向き合えているのかというと、全くもって「そんな暇はない」と誤魔化してばかりいる。出来る限りのことを出来る範囲で、誠実にこなしていくことだけが私の取り柄であり、美徳であったはずなのに、ここにいると出来ることも出来ないことも好きなことも嫌なこともみんな一緒くたに何でもハイハイとやろうとしてしまっては、中途半端に終わったり手も足も出なかったりする。こんな事では、持ち前の誠実さなどくずぐずに腐っていくだろう。
私にはまだ、東京は棲みにくき場所なのだろうか。
ひょっとしたら、土地に歓迎されていないのかもな。
そんなことを思いながら、そうだ、気になっていた六郷神社にいってみよう、神社に立ち寄ってお参りして、それから自宅がある東六郷に帰ろう、と考えた。
冬の六郷神社は閑散としており、一種の不気味なオーラを発していた。
そこに一人の老人がいた。老人は私を見つけるや否や、にこやかな顔で手招きする。
「誰ですか、あなた」
老人はにこやかな顔を崩さず、
「うん、君は私を知らないだろう。だが、私は君を知っている。今はそういう人間だということにしておいてほしい」
などと言い始める。怪しい爺さんだと警戒をしていると、朧げにだが爺さんの周りの空間が徐々にぐにゃんと揺らぎ出しているのが見えた。一体何だろう。私が近寄ろうと足を伸ばした瞬間、一気に時間はどろんと歪み、空間が漆黒へと溶けてしまう感覚が全身を貫いた。
「ようこそ、第七次元へ」
老人は私にそう言った。聞き覚えのある声のような気もしたが、ただの気のせいかもしれない。
「と言っても、まだこの時代の私は第七次元の存在すら知らなかっただろう。説明しても仕方がないことかもしれないが、そうはいっても七四歳になった私には残された時間がない。三四歳の今の君自身こそ、あらゆる分岐点の中でも決定的な分岐点である以上、君には果たすべき使命があるのだからね」
何をいっているのかよく分からない。この状況がどういう状況なのか把握しきらないそばから、老人は早口で難しい理屈を私に話し始めた。それによると、こういう話らしい。
そもそも私たちが平行宇宙を観測するためには、三次元+1である四次元宇宙を観測できるようになるだけではダメで、三掛ける二+1である第七次元の扉を開かなければならない。第七次元の扉は別名「テトラグラマトンの門」、第六次元まで時空間認識を深化拡張させた上で、更にその裏手に出ないと見えてこない。私は七四歳まで量子物理とカバラのつながりの研究に後半生を費やし、ついにテトラグラマトンの門を開く鍵であるセフィロト・インターフェースを完成させるに至った。セフィロト・インターフェースは元々、我々が「時間」と呼んでいるものが実は波であることを証明するための実験装置であり、それを簡易化したもので、時の干渉縞を引き起こすスリットの代わりに三軸で回転する円盤が取り付けてある。この円盤が回る状態と回らなかった状態を量子力学的に両方再現することで第六次元まで観測者を到達させ、さらに「回ってもおらず、かつ回らなかった訳でもない」状態を意図的に+1することによって第七次元に到達させる。それは生命の樹においてマルクト→ホド→ゲブラーの流れとマルクト→ネツァク→ケセドの流れだけではダメで、必ずその中間を通るマルクト→イェソド→ティファレトの流れを必要とし、かつ、ゲブラー・ホド・ケセド・ネツァクが四方を成して対になっている中間をティファレトが貫く必要があることと同じことだという。第七次元に到達し、時の波がスリットを経て干渉縞を起こすことを観測した瞬間に、あらゆる時間における〈私〉がタイムパラドクス無しに現前する。私が君の前に姿を現すことができたのは、その技術の応用だと。
何を言っているのかさっぱり分からないが、何より、いい年した爺にもなってセフィロトだ第七次元だ平行宇宙だ時間は波であるのだと言っているとは。完全にイカれている。と同時に、ふと「この爺さんにとっては未だに〈同化〉と〈漂白〉は解けないしがらみなのかもしれない」という思いが何の脈絡もなしに湧いてきてしまった。
「そうか、君はまだ〈同化〉と〈漂白〉のことについて考えていたのか」
考えを読まれたことに驚く。この爺さんはやはり只者ではない。
「いや、私にとっては懐かしい響きなのだよ。とっくに終わったはずの物語が、また蘇ってきたようだ。ただ、君に答えを教えるのは容易いが、それはタイムパラドクスに反するためではなく、単純にそう簡単に解かれてはつまらないから、あえて言わないだけなのだと思って欲しい」
全く、嫌らしい爺さんである。まるで、私を底の底まで知悉し尽くしているかのような話をする。
「そうだろう。だから、四十年若い今の君に、セフィロト・インターフェースの作り方を託そうと思う。
重ねて言うが、私はもう長くない。ここから先、君がどのような平行宇宙を選択するかは、いかに早く〈同化〉と〈漂白〉の問題を解き、エゴイズムを超脱して新しい世界線へと向かうことができるかに、かかっているのだよ。
さぁ、まずは私とともにマインドダイブの旅に出かけよう」
老人がそう言い終わるや否や、真っ白な光の線が縦横無尽に走り回り、漆黒の空間はやがて真っ白な空間に変化した。
明転した世界を眺めながら、私は
「まるで自分の心の中のようだ」
と独りごちた。
「そう、ここはn+Q次元、またの名をマインドダイバーの次元ともいう」
どこからか声が聞こえる。
「心の声に深く耳を済ませるには、丁度いい場所だとは思わないかね」
そうださっきの老人の声だ。
「さて、折角いくつもの平行世界の中から、君はこの世界を選んだんだ」
暗闇の中で一本の線が鈍く白色に光りだす。
「今一度思い出すんだ。君自身の本当の課題を」
1:〈同化〉と〈漂白〉
Ⅰ
目の前で猫が死んだ。
野良猫だった。道路を横切ろうとして走っていたのを、通りかかった車が撥ねて殺してしまった。ぱっと猫が飛び出してきた瞬間から、猫が轢かれて血を流してぐったりとしてしまうまで、一瞬の出来事だったが、私の目には今でもその一部始終が目に焼きついて離れない。
当時私は小学五年生の男の子であった。いつもと変わらない退屈な通学路をとぼとぼと歩いていただけだった。市内ではあったが街外れの田舎だったので、それこそ猫が飛び出してきそうな野山や河原、原っぱには事欠かなかった。猫以外にも狸やカモシカが山の中に住んでいるようなところでもあり、要するに車道に何かしら動物の死骸が転がっているということは「よくある」ことだったのだ。
そう、「よくある」こと。道路を車が走っていたところに、横切ろうとした猫が勝手にぶつかってきて死んだ。それだけのこと。田舎の道路ではよくあることさ。通常はこのような判断をする。だが幼い私にとって、その解釈はぞっとしないものに感じたのだ。
ところが、実際に猫が飛び出してから車に轢かれるまでの一部始終を、運転手からは外部の視点で目の前で見てしまうと、小学五年生の私の目には「よくある」光景とは別の異様なものに感じられてしまった。有体に言えば、ショッキングだった。このようなことが「よくある」と言える神経がどうかしている。
というのも、猫はただ純粋に、道路のこちら側から、あちら側へと渡りたかっただけなように思えたからだ。そして、ただそうした。それだけといえば、それだけであり、そのこと自体にはどう考えても何の罪もない。にもかかわらず車の方は、単純にこちらからあちらへの移動を企てただけの罪なき猫に轢き殺すという無惨な中断を強いた。おそらくは、目的地に向かって急いでいただとか何だとか、非常に人間的な都合によって、無自覚に。
「よくある」と言えてしまうのは、よく分からない何かの力によってそう思わされているに違いない。そのよく分からない力――おそらく「社会」と言っていいもの――はとても信用ならないもので、何の罪もない猫を轢き殺したからといって、誰もその死を悲しまない。一方で、これが人間だった場合は、交通事故としてカウントし、丁重にその死を弔う。この違いも、幼い頃の私には考えれば考えるほどよく分からないことだった。
結局、猫は「社会」なるものに殺されてしまった。
その理不尽さを思うと、やり切れない思いと同時に、不安な気分が心を占有しようとするのも感じた。
私も、いずれ「社会」によって殺されてしまうのだろうか。
ちゃんと「社会」の中で殺されずに生きていける方法など、あるのだろうか。
私は、殺されたくない。でも、「社会」が私を殺すと決めたら、私は理不尽にも殺されるより他はないのだろうか。
そうだ、私もいずれは「社会」の中に取り込まれ、その中で生きていかざるを得なくなる! こちら側からあちら側へ、ただ純粋に横断したいだけであっても、車が通らないかどうか気を配りながら注意深く渡らなければいけないような、そんな「社会」の中の方へと、進んでいかなければならない。
私のことを、死んだ猫はどんな目線で見ているのだろうか。
三四歳になった私、今ではすっかり「社会」に取り込まれてしまった私を……
目を覚ますと、今度はやけにのっぺりとした空間にいた。地面は白一色で、円錐がグルグル回転していたり、宙に浮く大理石の色をした球体がいくつも浮いている。まるで、黎明期のコンピューターグラフィックスの世界にオブジェクトとして放り込まれたような、そんな感覚を覚える。
「私もまたオブジェクトの一つでしかない」
「そう、君は宇宙の中では小さな小さなオブジェクトの一つでしかない」
私が独りごちるそばから、ポットが喋りだした。老人の声だ。
「しかしなぜ、私は自分が宇宙の中で小さな小さな存在だと分かるのだろう」
そもそも、自分が数あるオブジェクトの中の一つでしかないことが分かるのも、考えてみればみるほど不思議なことだ。
「その気付きは、君にとってはつい最近のことのようだが、もっと古い記憶を辿ればそうでないことが分かるだろう。さぁ、次のステージへ行こう」
Ⅱ
剣道部の帰り道だったか、塾の帰り道だったか、そんなことはとうに忘れてしまったがともかく、私は夜の川辺を一人歩いて帰ろうとしていた。
四キロ弱の道だから、中学生の私にとってそんなに短くはない距離だ。せめて、父親か母親か誰かが送り迎えしてくれたらよかったのだが、そういうことにはならなかったようだ。ともかく、私は歩いて川沿いの道を家路へと向かっていた。
ふと、ビジョンが降りてくるように、私の中で何かが決定的に分からなくなるのを感じた。
なぜ、私は今、ここにいる私でしかなくて、他の誰かではないのか。
おそらく、いろんなものから逃げ出したかったのだろうと思う。それもそのはず、中学校、塾、部活、親の期待……そういったものは、中学生の私にとっては吐き気を催すようなことで溢れかえっていたからだ。
学校での勉強は嫌いだし、そもそも勉強を好きになることもできない。塾もその延長線上にあって、何も楽しくない。とにかく、宿題が大嫌いだった。宿題ができなくて叱られて、時には暴力を教師から振るわれるような中学校生活だった。通うのが苦痛でしかなかった。それに輪をかけて、クラスでの私に対するいじめもひどかった。「キモい」「死ね」は日常的に私が言われる言葉だった。何か癪に触ることがあると、私はいつだって袋叩きの目に遭った。それも、嫌で嫌でしょうがなかった。
剣道部では試合に勝つこともできず万年補欠だったし、そもそも剣道で強くなることには何の興味も湧かなかった。そもそも親が「赤胴鈴之助のようになれ」と無理やり付き合わされたスポ少から始めて、続けたくもなかったのに惰性で七、八年も続けてしまったものだ。とっくに飽きていた。通いたくないと拗ねる私を無理やり通わせた結果、私は中学に入ってもやりたいことが何もないまま、ただ周りに流されるように剣道部に入っただけだった。そして弱い私を、部活の顧問や部員たちはこぞっていじめた。
「社会」は、私が私であるように強いながら、なぜか他人と同じように行動するようにも強いる。私はそういう意志を感じるたびに、違和感、矛盾を感じていた。そして、どちらかには従うか、どちらにも従えないということを繰り返していたのだから、当然ながら中学生活は嫌なものの集合体でしかなかったのだった。
例えば明日、朝起きたら私が今、ここにいる私じゃない誰かに成り代わっていたとしたら、この苦悩は軽減されたのだろうか……しかし、そんなことを考えてみても、余計混乱するだけだった。それはそれで、また別の苦悩があり、問題の本質は何一つ解決されていないように思える。
私が私であることが恨めしい。
でありまた、他人の目線、期待、「社会」が私に押し付ける色々な注文もまた鬱陶しい。
ビジョンはそんな葛藤の中で降りてきたのだった。
なぜ私は私であって、私以外の何かではないのか。
当然のことのように思えるが、実は当たり前ではない。
仮に私をaという名前で呼ぶ人がいて、違う人の名前bと区別するのは、まず私の外側にいる存在として自分とは違う、という区別がはじまり、またなおかつ他の人間とは違う固有の何かである、というようにまた区別されて存在するということが前提にある。
私という存在は結局のところ、その区別され差異化された体系の中でしか存在し得ないのではないか。
そうすると私という存在aは、非a的存在である他人とは別の存在である以上、互いに違った何かとして生きていくより他はなく、基本的には純粋なaとして孤独に生きていくより他にないわけである。
ところが、現実には誰もその孤独を生きてなどいない。生きていないし、生きようともしていない。
「同じ人間」「同じ中学校」「同じ部活」「同じ塾」「恋人同士」「家族同士」「友達同士」……「同じ」とカテゴリーで括っては純粋なaとして孤独に生きることを避け、「だってあなたもそうでしょう?」とさも当然のことのように輪に取り込もうとする。
元々自分とは違う非a的存在だったものが急に私に話しかけてきて、aであるあなたとも同じなんですよ、と勝手にみなして勝手に輪に取り込もうとするということは、一体どういうことなのだろう。私はb(非a)であるあなたとは違う! とどれだけ叫ぼうとも、あなた中学生でしょう、ならこうしなさい、友達でしょう、ならこうしようよ、と有る事無い事有言にしろ無言の圧力にしろ押し付けられなければならないのはどういった訳なのか。
私は孤独を生きたい、そっとしておいて欲しい、それだけなのだ。
だが、完全に孤独なa存在を生涯生き続けられるかというと、それも恐ろしくて考えられなかった。人は最期の最期までどんなに家族や友人に見守られていても孤独に死ぬという。なら、孤独なaとして最初っから生き続けることだっていいはずなのに、どうしてかそれを「社会」は許さないらしい。
なぜなのかは分からない。でも、孤独になるのは恐ろしい。
ひょっとしたら、「社会」が勝手に完全に孤独に生きようとすることを怖いことだと身体に刷り込もうとしているのかもしれない。この命が終わる時が訪れたとして、気休めでもいいから非aである他人には側にいて欲しい、と。
だとしても、だ。私は誰かと「同じ」ではない。誰とも「同じ」であることを共有する必要がないし、共有しなくていいはずなのだ。至極当然のこととして大切に守りたいだけなのだ。
なのに、中学生というだけで学校に通わされる。
剣道部員というだけで、試合に勝って成績を上げ、成績を上げられるだけの強さを身につけるように要求される。
塾に通えば勉強が嫌いなのに、勉強ができる人間、勉強が好きな人間になるように要求される。
私はそれが痛いほど辛いのに、辛いことを理不尽にも大人たちは要求する。
他の一四歳の人間と「同じ」中学生、他の剣道部員と「同じ」部活に入っている私、「同じ」塾に通う私……それらは私であって私ではない。少なくとも、望んでそうなった私ではなかった。辛いから逃げているとか、グレたくてそうしているとか見なす人もいるだろうが、そういう人は何とでも言えばいい。ただ私は、他の男子や女子とは独立した別個体なのにも関わらず、大人たちや同級生たちの勝手な線引きによって「同じ」と括られることそのものに違和感があるということを言いたいだけなのだ……
n+Q次元にもそろそろ飽きてきた。目を覚ますと球から立方体に変わっただけで、またコンピューターグラフィックスのような世界が広がっているだけだったからだ。
ここから出るにはどうしたらいいのだろう。
「そもそも君は」
ポットが語りだす。
「ここから出る方法を探すよりも先に、この空間に導かれたことの意味を考えてみてはどうかね」
そう来たか。ただ、そんなことに思考を働かせられはしない程、私は疲れていた。ただ脳内でサクッと思い返すだけで十分だったものを、どういう訳か具体的なビジュアルを伴って網膜にガツンと見させられるのは、正直きついものがある。しかも、決して愉快ではない思い出なだけに、尚更。
「ということは、君にとっては二つの思い出はちょうどトラウマであって、さしずめ〈同化〉と〈漂白〉の問題に導かれる補助線の役割を果たしていたということになる。そうだね」
「ええ、そう思います」
そう答えながら、いよいよ老人が私に向けて何をしたいのかを、私は少しずつ理解しようと努めている自分に気が付き出した。
「じゃあ、話を整理しよう」
Ⅲ
「大事な点を整理しよう。
猫の死を通して君が感じ取り、言語化しようと試みたこと。それは猫と、私や猫を轢き殺した車の運転手を区別している「社会」という何かの存在の発見であった。
次に、下校中夜道の中で中学生の君に降りてきたビジョンが暗にさし示していたこと。それは、「社会」そのものが「同じ」というカテゴリーによって集団を形成することによって成り立っていることであり、「同じ」と括ることによって必ず「同じ」の外側に漏れ出ようとする何かを抑圧しようとすることだった。ここでは、純粋なaとして孤独に生きることは「同じ」の外側に位置することなのだ。
ここで
〈同化〉=何らかのカテゴリーやラベルでもって、本来は互いにaと非aでしかないはずのaとbを「同じ」とみなし、何らかの規範(ルール・約束事)を生成すること
とし、
〈漂白〉=「同じ」aとbの間で規範が守られるように、互いの都合の悪い部分を無かったことにしたり、約束事が守られている限りはお互いを都合の悪い存在とはみなさないようにすること
と定義づけると、君が苦しみ悩んできたことは結局は〈同化〉と〈漂白〉の問題であるという風に縮約することができる。
〈同化〉と〈漂白〉はほぼ同時に起こる。どちらが先でどちらが後ということはない。元々「同じ」でないものが「同じ」規範のもとに何かをするということ自体、奇跡というよりも単純に論理上不可能と考えるべきことなのだが、「社会」はその論理的不可能を〈同化〉と〈漂白〉によって無理やり越えようとしているように見える。だから「社会」を運営していくためには必ず、都合が悪い故に抑圧され、隠蔽され、無かったことにされることが無数に起こる。そして、抑圧も隠蔽もできず、したがって無かったことにできなかった都合の悪いことは周囲から目の敵にされる。
小学五年生の君の目の前で死んだ猫は間違いなく〈同化-漂白〉作用の中で「社会」の外部に追いやられてしまったと考えられる。そして「よくあること」として消されたのだ。もちろん、君は今更になって猫を轢き殺した犯人を突き止めて糾弾するためにこう考えているわけではなく、あくまで私たちの物事に対する認識のカテゴリーとしての〈同化〉と〈漂白〉によって、(人間とは違う)野良猫を轢き殺しても無罪になり、「同じ」人間を轢き殺せば何かしらの罪に問われる、そういう「社会」が出来上がっているのではないかと考え、それに違和感を感じているのだ。
しかしながら、共に「同じ」であろうとすることは人と人との間の中で必ず軋轢を伴う故に、基本的には苦しい。先生から注意されたり、理不尽な怒りを向けられたりする度に、何の罰でこんな仕打ちを受けなければならないのか分からなくなることがしょっちゅうあったろう。こんな思いをするために学校に通わなければならないのか、と。そもそも、なぜ学校に通わなければならないのかも、考えてみれば不思議なことだ。みんなと「同じ」であり続けるため? それにしたって、私とあの人とは違う物質・違う個体なのだから、その時点で「同じ」であることには無理があるはずなのに、なぜ?
しかし、こういうことばかりを考えている君ですら、「社会」の圧力に勝てなかったということもそうだが、休み休みでも学校には通い続けて、最終的には卒業出来た。
無事大学も卒業し、社会に出てからは曲がりなりにも何度か職にはありついている。
一体、何のためだと思う」
私が答えようとした側から、高校生くらいの男の声が、まるで私の声を代弁するかのように滔々と話し始めた。
「視点を変えることにしたんです。
みんなとは「同じ」ではない。aである私はどこまで行っても非aである皆さんとは「同じ」土俵に立てない。
でも、人間の身体と知能を持って生まれた以上、「社会」とは生涯付き合っていかなければならない。
なら、その「社会」の正体を突き止めて言語化できるようになり、やがて私の言葉で「社会」を終わらせる日が来るのであれば、その時、〈同化〉と〈漂白〉の問題にも決着がつくはずで、「社会」を終わらせるためにまず「社会」の何たるかを学ぶ必要があるのであれば、嫌いな勉強も耐え忍ぼうと思えました」
「素晴らしい回答だ。そう、君は元からそうやって反「社会」的に生きることを、愉しんで生きてきた人間なのだ。だからこそ、君は「社会」と馴染むような振りしてその裏をかこうと必死になってきたはずだ。
君はまずそのことを認めるところから始めなくてはね。「社会」を終わらせるということは、君にとっては本当の意味で自分自身を生き延びさせるために已むにやまれず取り組んでしまうことであり、とても大きな根本課題なのだと言っていい」
ああ、そうだ。でも、そんな大それたことを、本気で私が出来るなんて、この歳になってみてこれっぽっちも思えなくなっているのも事実。「社会」を終わらせる前に、私の人生そのものを終わらそうと思ったことが何度あっただろうか。
Ⅳ
二つの思い出を経た、その後の人生の話をしよう。
高校を卒業して大学に入ってからは哲学を学んだ。〈同化〉と〈漂白〉の問題を哲学的に深めようと思えば、この時期にいくらでも出来ただろう。
だが、実を言うとその時期は〈同化〉と〈漂白〉についてしつこく考えることをしばらく中断してしまっていた。だから、ここに特筆すべきことは何も起きなかった。大学生ともなると、就活を除けば、みんなと「同じ」であることをさほど強要されなくなるし、それこそ自らの意志で何者になるかを選んでいい自由が開けていたから、単純に大して問題意識として上らなかったのだ。そうでいて、元来しつこく〈同化〉を免れるにはどうするかを考えていたような人間ではあったので、就活にはさっぱり興味を持てなかった。結局どこにも就職せず、大学を卒業したら野原に放り出された獣のようにそこかしこを転々と暮らしていた。まだシェアハウスというものは出始めの頃で、家賃も高かった。よく、押し入れをベッドにしたような月三万の脱法ハウスに転がり込んで暮らしていたものだ。ただ、その生活もとうとう余裕が無くなって、貯金も尽きたタイミングで親に相談したら、帰っておいでというので帰郷することにした。
その頃には、もう〈同化〉と〈漂白〉の問題などどうでも良くなっていた。とりあえず、親孝行でもして立派に「社会」に溶け込む術を探す方が賢明なように思って、手始めに親父が電気の仕事をしていたので、継ごうと思い立って職業訓練校で電気の勉強を始めた。勉強は楽しかった。今までの勉強とは違う分野の勉強は自分の思考回路にとっていい息抜きだった。
問題は卒業してからだった。電工見習いとして入ってみた会社が、蓋を開けてみたらパワハラ・セクハラのオンパレードだったのであった。ハラスメントというのは残酷なもので、要は対話の拒絶なのだ。「男らしくない」「口答えするな。お前は◇◇より下なんだぞ」というポジショントークで問題の本質を紛らわそうとする。いや、彼らにとってはポジションこそが問題なのであって、私の思うこと考えることが正いかどうかはどうでも良かったのだと思う。
どのポジションに立てばどれだけ発言権を得られるのか、そういう争い、というわけだ。私はそういうゲームをつまらないと思ってしまうタイプの人間だった。つまんないなと自覚が芽生える頃には、会社をクビになっていた。
次の仕事を探す気力はなかなか湧かなかった。気づいた時には、「社会」の内に私の居場所などとうになくなっていたのではあったが、抗おうにも既に遅きに失している。自分にできることも、この先真っ当に生きていける手段もほとんど残されていないように感じて、その度に絶望し、死ぬより他ないように思った。不安神経症的な症状が現れたのもその頃で、とにかく「死にたくない」(裏返せば、死にたい)という思いに取り憑かれて、毎晩夜も眠れなくなることが多くなった。昼夜逆転状態になる生活が続き、私の精神は確実におかしくなっていった。
その時期にやっていたのが、読書だった。ひたすら読書をした。読める限りの手元にある本は活字でも漫画でも何百冊と読んだ。読んでは感想を書き、また読んではひたすら思うことを膨らませていった。
もう一度「社会」と向き合うことを、自分なりにしようと試みたのだろうと思う。その試みを続けていたら、私はある意味何かを悟れたかもしれない。
ところが、何百冊と読み、もうすぐ千冊届くかという頃になって、私に「僧侶にならないか」という話が舞い降りてきた。
母方の実家が浄土真宗の寺だった。住職は老人ホームに入ってしまって、後継もいなかった。
働かずに引きこもってばかりいる私をみかねて、母が私を後継に、と考えたのだった。このまま引きこもっていては、父や母とも関係が悪くなっていく一方で、私の精神もどんどん蝕まれていく一方なのを感じた私は、その現実から逃避するために、京都へ逃げることにした。
真宗僧侶は、結果的には四年続いた。修行時代の二年間は、嫌なこともあったが総じて楽しい日々だった。単純に仏教の勉強は楽しかったし、自分がどういう人間なのかを仏の教えを通して掘り下げるというのも愉しかった。レポートやノートも沢山執筆して、人生の中でこれだけ物を書いた時期はないのではないかというくらい沢山書いた。
しかし、真面目に親鸞の教えを学べば学ぶほど、なぜ寺に戻らなければならないのか、そもそも、寺という存在はない方がいいのではないか、念仏一つで十分なのであれば何も寺というのではなく別の拠り所の形があり得るのではないのか、と考えるようになった。それはどうやら真宗教団にとっては常に都合の悪い問いとして、外部に追いやられてきたことらしい。
とうとう私は自坊へ戻ることになったが、その時の暗澹とした気分は、その先に待ち構えている暗黒の二年間いやそれ以降の人生を予見していたように思う。結論から言うと、私はお寺の環境や仕事に対して心身共に不適合を起こし、心療内科で治療を受けることになってしまい、法務に戻れなくなった。心神耗弱で布団から起き上がれなくなってしまった私を両親は寺から追い出し、私はいよいよこの「社会」の外側に取り残されてしまうのであった。
「社会」が私の手で終わらせるに足るほど、手に負える程度のものだったら、こんな目に遭わずに済んだのだろうか。
それとも、「社会」に順応しようと一度でも努力しようとしてしまったことそのものがそもそもの間違いだったのだろうか。
いずれにせよ、反「社会」というお題目は私にとって確かに生きるに値する大事業なのかもしれないが、そうは言っても「社会」の中で生きていくこと無しには私の生命維持も精神の安定も約束されないことを現実問題として知ってしまったからこそ、ずっとジレンマとして抱えてきたんじゃなかったのか。
「また、随分と思考がぐるぐるしているようだが、この際はっきり言おう。
君は随分遠回りをした。それだけのことなのだ。
だから、こう考えてはどうだろうか。
君には「社会」を終わらせる力もなければ、君自身を終わらせる力もない。
ならば、君自身がたった一人で悩み抜いてきた〈同化〉と〈漂白〉の問題を他の人はどう考えるのか、問うてみたらどうだろうか。
そうして、君と問題を共有できる人と一緒に、「社会」に代わる新しい人と人との交わりと集団を再構築しなおすのだ。
その兆しを、君自身心療内科以降の人生で経験しているはずだ。
さ、更に一つ一つ整理し直していこう」
2:〈社会〉とはなにか
Ⅰ
「何もできん者になった」
心療内科のデイケアルームの隅っこでうずくまりながら、私はそう心の中で独りごちた。
何もできん者になった。それは文字通り、何でもいいからできる人間になる、つまり「社会」の中で何かの役に立つ生き方がポキリと折れたということだ。
もはや「社会」の中に自分の居場所は無いとはっきり悟った。そもそも、居場所を求める必要なんかどこにも無かったのだ。
なのに、私は随分無理をした。
何もできん者だと、否が応でも受け入れた。ようやっと、私は自他共に認める「社会」の外部に存在する者の地位を得るに至った。発達障害、双極性障害の診断が下され、精神障害者になることによって、ようやっと。
診断が下された時は、言いようのない嬉しさと解放感があった。思うに、その感動は私が自分なりにaとしての自分を獲得できた感動であり、かつまた同時に非aでしかない他者と巡り会えた感動でもあった。これで、誰も私と「同じ」土俵に立ちたいと思う人間はいなくなるだろう。誰が、精神を患った私と「同じ」と思いたがるものか。「社会」に馴染もうと無理をしていた頃は、同じであろうとして同じになれない孤独を味わっていた。でも、もうその必要もなくなった。心が軽くなるのを感じる。あぁ、もう私は人と「同じ」であろうとする必要から解放された!
改めて言うが、そもそも「同じ」になれるはずだという前提を共有することそのものが不可能なのだ。そして、私とあなたの脳機能は違い、したがってまた私とあなたでは精神構造や考え方さえ、同じとは限らない。単純に、私は私なりの理性や脳機能を抱えながら、これまでなんとか生きてきただけのことだ。それを乱暴に「社会」と結びつけて「世間ではこうしているのだから、あなたも同じようにちゃんとしなさい」と大人たちから、周囲の人間たちから言われ続けてきたように思う。だがもうその声に従う必要もない。あるいはもっと狡猾なやり方、従うフリして都合よく利用したり揚げ足を取ることだって、今ならできるかもしれない。
しかし、これだけ脳機能には個人差があり従って知性や感性として表出されるものや受け取り方もそれぞれ異なっていると言うことは、皆等しく同じレベルの理性や知性を兼ね備えており、誰とでも共通理解が可能であるという「社会」の前提を根本から揺さぶるものだ。だから、都合が悪い。故に、「障害」なのであろう。
しかし、そんなことに何の責任が私にあろうか。私は私で、相手の理性や知性、脳機能の発達度合いに依らずに、新しい人と人との繋がりを考えていけば良いだけだ。
何もできん者になって、ようやく私は「社会」への反逆を始められるようになった。新しい人生が、ここから始まった。
Ⅱ
何もできないからといって、何もしないわけではなかったあたり、私は真面目な人間というべきなのだろう。
心療内科に通うようになってからは、毎週のようにデイケアに通い、通えた日はカレンダーに赤丸をつけた。赤丸をつけた日が増えると、自分の自信になり、次のステップに進む意欲も生まれてくるようになった。
アパートでの一人暮らしもだんだん板についてくるようになった。人とうまく交れなくて寂しい心持ちがする夜もあったが、赤丸をつけてスケジュール管理をすると同時に帳簿もつけて金銭管理をするようになると、およそ生活で困ることはなくなってきた。自分の人生を取り戻して、より自分の精神を安定させる方向で生活を組み立てていけば良いと考えると、やるべきことは私なりの〈日常〉を作り出すことであった。
私は「社会」に頼ることなく、自分の人生を構築する〈日常〉をセルフビルドし始めた。スパイスカレー作りは、それに随分役立ったと思う。元々僧侶だった頃に友人から教えてもらったことだったのだが、カレールーのカレーよりも美味しく作れて、尚且つ自分でスパイスを調合する楽しみがあった。それがまた、セルフビルド感があって良かった。
自分の持ち物をなるべくシンプルにすることも考え始めた。試しに、無印良品のものだけで周りの道具を揃えてみて、要らないものを捨てていくということもやってみた。それなりのお値段で長持ちするものをチョイスした結果無印に行き着いたのだが、揃え始めてみるとちょっとしたコレクター心を適度にくすぐられるので、それもまた〈日常〉の中にワクワクを生み出し、精神の安定につながった。
そうして、無印で揃うものはある程度揃って、自分の欲しいものはだいぶ絞れてきたところで、いよいよ自分の欲しいものを自分で作るようになった。手始めにパソコンデスクをDIYした。ホームセンターで買ってきた合板を加工して、パイプとジョイントを組み合わせたものを取り付けるだけの、さして難しくないDIYだったけれども、必要最低限を満たすにはちょうど良かった。
とうとう、この生活で欲しいものは皆手に入れてしまった、と思えるところまで来てしまった。細々した物のメンテナンスはあるけれども、あとはしばらく、何も買いたいものがない。何か欲しいと思うこともないし、物欲がないからすることもない、というところまで生活を整え尽くしてしまった。
あらゆる必要なものが揃ってしまった私が次に手をつけたのは〈社会〉のセルフビルドだった。
Ⅲ
私たちが適合を強いられ、〈同化〉と〈漂白〉の中で魂を削られながら、他人の目を気にし、他人に合わせて行動しようとする原理の働いている人の集団を私は「社会」と呼んできた。
それに対して、決して〈同化〉と〈漂白〉からフリーではないし、「社会」よりももっと規模は小さいけれども、自分が受け入れたわけでもないルールに無理やり合わせて行動するよう強制されることもなければ、合わない人間を無理やり排除することもない、ゆるいつながり、セルフビルド可能なつながりである〈社会〉を、私は徐々に構築し始めた。
手始めにやったのが、マルシェのフード出店だった。料理はもちろん、得意のスパイスカレーで。商売にはならなかったが、自分が作ったカレーを人が食べてくれて、しかも僅かながらお金に変えることができたことはちょっとした私の喜びになった。
次に始めたのが、コンポスト作りだった。元々住んでいたアパートで段ボールにホームセンターで買ってきた腐葉土や籾殻くん炭、ピートモスを入れただけの簡易的なものから始めたのが、コンポストにハマるきっかけになった。まず、生ごみを燃えるゴミの日に出すことをほとんどしなくなってストレスが減った。これは精神衛生上とてもいいことだった。加えて、生ごみを土に還す行為が何となく環境にいいことをしているような気分になり、おまけに肥料にもなって、畑仕事という次の楽しみにつながるようなワクワクを生活の中でもたらしてくれた。もっとも、コンポストから作物を育てることが可能な土を生み出すのは、調べた結果かなり厄介だということもわかったが、その探究もまた楽しかった。
そのうち、生ごみを還すための大掛かりな堆肥作りを手がけるようにもなった。当時通っていた就労移行支援事業所では、裏庭に畑があって、要するに畑作業に興味がある利用者を探していたので、ある意味私はうってつけだったのだろうと思う。
こうして、事業所の調理実習で出る生ごみの殆どを土に還し、畑に漉き込んで堆肥にするプロジェクトが始まった。堆肥舎作りから、必要な資材集めに奔走し、材料が揃ったら切り返しを行い、六十度以上の温度に発酵させるところまで行ったら、いよいよ生ごみを投入し始めた。一年がかりの壮大なプロジェクトによって、即効性があるというよりは元肥にいい堆肥が出来上がった。
ただ、この体験で大事だったのは、元肥を作ることではなく、自分でプロジェクトを立案して、実際に実行に移すという体験を通して、小さくても人を動かす、人と協力して物事を動かすという経験をしたことだったろうと思う。
そのうち、コンポスト作りをしながら、土に還した生ごみでスパイスや玉ねぎ、トマトなんかを育てて、カレーを作って、そこで出た生ごみをまた土に還す、といった循環をうみだせないかと妄想を膨らませるようにもなった。それは同時に、私が作りたいと思える〈社会〉のモデルにもなった。物質の流れはサイクルの中を循環し生成変化しながら、人は流動的に関係し合い、循環の恩恵に預かる。そういうエコシステムを作ることが、私の目指すこの世界における仕事の一つになるだろう。
そんな考え方が定まってきた頃に、私はフェスを作るために東京に行くことになる。
Ⅳ
私は東京に戻ってきた。
初夏の六郷土手をロードバイクで走る。心地よい風が身体を通り抜けて、この感じならどこまででもいけそうだぞ、なんて気がしてくる。調子に乗って新丸子も通り過ぎて、ガス橋で折り返してから、武蔵小杉を通って川崎市街を駆け抜け、また六郷土手に戻ってくるというルートを通ってみた。流石に最後はヘトヘトになったが、二時間かければこれくらいの距離を走れるのかと実感が湧いたのは、何だか良かった。
なぜフェスティバルを作るために東京にやってきたのか。
よく聞かれる質問である。聞かれる度に、私は「だって、フェスなら自分のやってきたことが何でもできるじゃないですか」と答えてきた。元々、高校の頃から大学にかけて、小説を書いたり、音楽を作ったり、電子工作にチャレンジしたり、動画を作ってみたりした。それらの経験はそのままフェスのストーリーやコンセプト作り、コンテンツ作りに活かすことができる。また、カレーで出店した経験はマルシェにも応用できる。
フェスティバルが用意する空間は、私に言わせればもう一つの〈社会〉なのだ。私たちは祝祭を通して、大文字の「社会」とは違う固有のセルフビルドされた〈社会〉を作っては、それを祝い、歌い、舞い踊り、そして循環生成の輪の中へと私たちを連れてゆくだろう。
だから、私は東京に出てきた。どこまでも行けるだけ、行くところまで行ってみようとして。そして、行く先々で物質の循環の輪と人の流動的乱雑を生成しながら、「社会」を反転させて〈社会〉に分解する。あたかも、微生物が腐った生ごみを分解・解体するように。
二、三時間あればロードバイクで六郷土手から吉祥寺、ひょっとしたら立川のあたりまで行けるかもしれない。もっと時間をかければ、もっと先へ。
3:エゴイズムを超えて
目を覚ますと六郷土手にいた。n+Q次元からはどうやら抜け出したらしい。老人もいつの間にかいなくなっていた。
その代わりというべきなのか、私は妙に温かいものに包まれているかのような感覚を覚えていた。意識がはっきりしてくるに従って、それが人の温もりであることが、いや、人の温もりではあるが、その人というのが私自身の温もりであることが分かった。
数え切れないほどの数の自分自身がそこにいた。小学五年生の自分も、中学二年生の自分も、二四歳の自分も、若干老けているがおそらく未来のどこかの自分も、一堂に会していた。非常に奇妙な光景がそこにあった。
目の前にはステージがあり、スピーカーから音楽が流れている。聞き覚えのある音楽に混じって、自分がかつて作ったことのある曲も流れていたりして、何だか恥ずかしいやら何なのやらよくわからない気持ちになってくる。
出店にはスパイスカレーやひじき煮ときんぴら牛蒡、麻婆豆腐にタコス、クラフトコーラ、味噌湯……カオスなようでいて、よくよく考えれば自分の好きな料理でありかつ得意料理だったものが並んでいた。試しに一つ頼んでみたが、まさに私の作る料理の味そのものだった。
フェスのゴミ捨て場にはただ巨大な生ごみ堆肥が置いてあるだけで、そこに捨てれば土に還るようにコップや使い捨て皿まで設計されているようだった。
そして、驚くべきことに、私は会場内で一銭も支払わずに、いろんなコンテンツを楽しんでいる。
「当然だろう、君自身のフェスなのだからね」
老人がそこにいた。手には特製激辛麻婆豆腐を持っている。
「そうか……あんたはここに私を連れてくるつもりでいたのか」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。何しろ、君がここにいるのは、ここまで自分の足で歩いてきた結果なのだからね」
歩いてきた? 私はそんなつもりなどどこにもなかった。
「そのつもりがなくても、君は沢山のことをこの世界でやってきたのだよ。
自信持って良いのではないかな。もはやa存在を純粋に生きることができるようになった君は、人に対して純粋な贈与、しかも際限のない無限贈与をする力を持っているのだからね。
なぜなら、純粋なa存在である君が非aである他者や世界に働きかける時、その影響や波及効果を考えるにあらゆる条件づけは無意味なのだ。この麻婆豆腐一つとっても、無条件の見返りなしに彼が与えてくれたものだ」
そう言って麻婆豆腐の屋台を指差す。二九歳の私が汗をかきながら無印で買ったフライパンを必死に奮って豆腐を炒め続けている。
「さて、このフェスティバルも終わりを迎える時が来た。
君が壇上に立って、この世界線のままでいいのか、それとも別の世界線に移って君自身の紡いできた物語に一旦終止符を打つのか、君が決めるのだ」
一瞬、狼狽えた。なんでそんな大役を私がやらなくてはいけないのか、と思うと同時に、正直こんなクソッタレな人生早く終わればいいのにとか何度も思ってきたはずの自分が、このフェスの中で無数の〈私〉に揉まれている中で、だんだんとこの人生は終わらせるには惜しいと躊躇している自分がいたのだった。
そして、気がついたら泣いていた。奇妙なことではあったが、自分で自分自身に感動していた。何だかんだで、健気に頑張ってきたんだな。情けない私でも、ここまで生きてくれたんだな。私は奪ってばかりの人間ではなく、確実に誰かの人生に何かを与えていたかもしれないと、心の底から思えるようになってきた。
「時間だ。壇上に上がって、君の口からこれからどうするのか皆に告げよう」
涙を拭って、壇上へと歩いていった。
このクソッタレな人生を終わらせようと別の世界線に行っても、そこでもまたきっと苦労はあるだろう。全く苦労のない世界などあり得ない。だとしても、だ。私はいつか、私の手で自分の人生に幕を下ろさなければならないのだろう。それが明日かもしれないし、もっと遠い未来かもしれないけれども、数時間後、数秒後かもしれない。
後悔しない選択などあり得ないとしても、私はこれまでのクソみたいな人生を肯定して、これから待っている無限贈与・無限循環の輪の中に、絶えず身を投げ出すだけだ。
私の中で、エゴイズムが壊れる音がした。
そして、壇上に立つと、セフィロト・インターフェースを勢いよく回転させた。
〈終〉
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