ポスト・ビレッジの思想 2
「ムラ」がいずれ終わるとはどういうことなのか。
私が幼少を過ごした1990年代の日本と比べて、明らかに自分たちとは国籍・民族・言語といったルーツが異なる人と街角ですれ違うことが多くなった。
コロナ禍の後になって、また近年の円安の影響もあってか、余計そのことを感じずにはいられない。
日本人はこういう変化にかなり敏感である。
そして、考えるようになる。
一体、ヨソから来た彼ら/彼女らは一体日本に何を求めてやってきているのか?
一体、ヨソから来た彼ら/彼女らは日本に何をしにやってきているのか?
気に入っているのか? 気に入っていないのか?
単純に楽しみで来ているのか? それともそれ以外の何かで来ているのか?
等々。
しかしながら、上記のような問いは、あくまで日本人が「日本人」というムラの中で思考のフレームワークを規定されてしまっているから、そのような問いしか生まれてこないのではないか。
ウチ/ソトというフレームワーク、そしてヨソ者というラベル。
これらは、日本の伝統的なムラが温存してきた思考の型であり、他者がどういうものであるのかを見るときに意識的、あるいは無意識に日本人が採用してしまうフレームでもある。
そしてまた、ヨソ者として対応する限りにおいて、移住者や外国籍の人々というのは冷たい目線を向けられがちなもの、マイクロであれ何であれアグレッションの対象になってしまうもの、すなわち排除の対象になってしまう。
なぜ、近年アメリカでは熱心に「白人の特権」ということが議論されるのか。
それは、彼ら/彼女らが文化的に進んでいるとかそういう話ではなく、単純に国籍やルーツの違う人とも政治的・経済的・文化的に共生して行かないとすぐに機能不全になる国家体制であり、そのような国としての歴史を歩んできたからに他ならない。不平等、待遇の格差に対して常に声を上げなければ、自分の社会的地位を保つことも、夢を叶えることも、またこの国で殺されないように生きていくためにも、必要だからそうしているのである。
さて、いずれ日本もそういう国になるのだろうか。
いや、もう、既になっているのではあるが、ほとんど問題になっていない。
おそらく私がアメリカで暮らすとなれば、「アジア人」「アジア系移民」として見られてしまうし、アメリカ社会で成功しようと思えばそれなりの苦労は覚悟しなければいけなくなるだろう。しかし逆に、日本にいる限りは、「あなたは日本人か?」と誰かが問うまでもなく、日本人として向こうが無条件で認識して、親しく話しかけてくれる。
日本語を話せないからとコミュニケーションを拒否されることもない。
マナーが悪いのではないかと疑いを持たれることもほとんどないから、住宅の契約でも特に困ることはない。
大体の会社において、面接や採用プロセスにおいて日本人でないからという理由で不都合な目に遭うことも、また逆に変に持ち上げられることもない。最低賃金以下で労働させられることもない。ローンなど各種審査で不都合をきたすこともない。
些細な事柄から命や生活に関わるところまで、あらゆる面で日本において日本人であること、両親共に大和民族であるような生粋の大和民族であることは、不都合がないだけでなく社会の上部階層に参入する上で無条件に有利な点において、やはり「特権」なのだ。
「ムラ」が終わるとき、それは、私たち日本に住む日本人が、日本に生まれ、両親ともに日本人であることがどれだけ「特権」であったのかを自覚させられ、反省と思索の中でウチ/ソト、そしてヨソという概念がもはや無効になった日本を想像するところから始まる。
そして、本来日本は多民族・多文化・多社会の国であったことを歴史から学び、日本は単一民族の国であるという幻想を綺麗さっぱり捨てて、決してルーツを同じくしない人たちとどのように共生関係を結ぶかを真剣に考えなければならなくなるだろう。
(3に続く)
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