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ポスト・ビレッジの思想 3

引き続き、「ムラ」がいずれ終わるとはどういうことかを考える。

私が「ムラ」という時何を想定しているのかというと、具体的な〇〇村、あるいは〇〇ビレッジを想定しているわけではなく、それら具体的な村々に共通して存在する特有の「構造」そのものを指す。
注目すべき特徴はいくつかあるが、差し当たり次の4つを取り上げておく。

  • ムラのウチ側だけで仲良くし合う

  • 馴れ合い(根回しと暗黙のルール)が基本的なガバナンスの手段

  • 素朴な物々交換経済、あるいは贈与交換経済

  • ムラに住むもの同士は互いに精神的に大切なものを「同じ」くし合えていなければならない(「同じ」出自、「同じ」前提、「同じ」ビジョン、「同じ」バックグラウンド、「同じ」価値観……)

私が「ムラ」社会の終わりとして考えている社会の状況とは、まず第一に「ムラ」を支えてきたこれら構造を支える要素それぞれが全く成り立たなくなった社会情勢のことである。すなわち、

  • あらゆる人やモノがインターネット網でつながってある現在の社会においては、世界中で起きているあらゆる出来事・あらゆる事件に関する膨大な情報がまるで洪水のように氾濫しており、もはやそれらと無関係に生活を営むことは不可能になってきている。それによって、

    • 元々ムラ社会では「ヨソ」ごととして無関心で済まされてきたものが、もはやヨソごとでは済まされなくなっている。

    • また、「ヨソ」者として人を差別し排除していく眼差しそのものが問題視されるようにもなっている。

  • 民族的なルーツ、行動原理・規範、根底にある価値観、信仰が全く共有できなくても、それを理由に相手を排除せず、共生し合う関係を模索しなければならなくなった。それにより、

    • ルールは必ず明文化しなければならなくなった。暗黙の了解、あるいは文章にはなっているが玉虫色の解釈ができる文言などは嫌われるようになってきている。

    • 根回しや雰囲気の醸成、煽動など、いわゆる「同調圧力」が通用しない相手ともコミュニケーションを取って協働しなければならなくなった。

    • 精神を支える大きな何か支柱があり、それを「同じ」くするやり方での共生が難しくなった。むしろ、「違い」を認めて、お互いの「違い」そのものを尊重し合うことが大事であり、そのためにも自分を支えられるのは自分自身であるという認識が広まりつつある。

  • 高度な資本主義の発達とかなり確実にターゲットを狙い撃ちできるマーケティングツールの登場により、

    • 素朴な贈与経済、物々交換の経済には戻れなくなった。基本的に、価値の天秤がほとんどピッタリ釣り合うところでしか交換取引が成り立たなくなってきているために、贈与や物々交換に特有の「余剰分」というものをコストパフォーマンスの名の下に徹底して切り捨てるからである。

さて、このような社会情勢になってもなお、理想の「ムラ」を作ろうと懸命な人たちがいる。
確かに彼ら/彼女らは、過去へのノスタルジーから、あるいは自分たちのルーツに立ち返りたいがため、あるいは自分たちを安心安全に包んでくれる場所に籠っていたいが為に、自分が作りたいのは「ムラ」なんだと宣言して憚らないのだろう。
だが、今日においてもはや「ムラ」作りは、イコールそのまま生活共同体づくりということにはおそらくならない。どちらかと言うとある種の「テーマパーク」作りに近くなるだろう。
テーマパークの中の人であるキャストにとっては確かにエコロジーであるとかパーマカルチャーであるとか、縄文的メンタリティ、江戸的エコシステム、ワンネス、バイブス、終末論……何でも良いが、重要なマターmatterではあるのだろう。ただ、テーマパークの外側に出るや否や、それらはたちまちno matterなのである。
一言に縮約するなら、ムラ作りとはある種の「ゲーム」に過ぎない。

(4に続く)

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