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私を思い知った日

この人には敵わない—――。

そんな絶望感を味わった経験は、何度あるだろうか。

スポーツ、芸術、勉学etc・・・日々の生活の中で、自分の実力というものを思い知る瞬間がある。

そしてそんな時は大体、他の誰かと比べて自分が劣っている事が分かり、客観的な自分の”位置”を知る事になる。

位置を知らないと、掲げている目標に到達するまでの道のりを把握出来ないし、時として無駄な時間を割く原因にもなる。

私がそんな苦い気持ちを思い出す時は、決まって ”ある友人たち” が思い浮かぶ。



私は五歳から十五歳の十年間、ピアノ教室に通っていた。

五歳の私はある日、おもちゃの一つとしてピアノを欲しがった。

たぶん、「題名のない音楽会」をテレビで見た事がきっかけだったと思う。

我が家は決して裕福な家庭では無かったけれど、両親は揃って ”興味のある事はやらせてあげたい派” の人たちで、「ピアノが欲しい=ピアノを習いたい」と解釈し、言い出したその週末には大金を叩いてアップライトピアノを買い与えてくれた。

毎日練習をして、ピアノ教室に通わなければならない、というオプション付きだったけれど。

ただ、通い出すと割と思いのほか楽しくて、両親は私が一曲弾く度に褒めてくれたし、特に同居していた祖母は、練習していると横に佇んで嬉しそうに聞き入ってくれた。

そんな家族の反応が嬉しくて、私は小学校二年生の八歳になる頃までは、熱心に練習をして順調に上達していった。

年に一度発表会があったのだが、七歳の時に「エリーゼのために」を弾いたら、周りからも沢山褒められた。

「この年齢で弾けるのはすごい!」そう言われた私は遂に、自分にはピアノの才能があるのかもしれない、将来はピアニストになる!という夢を掲げるようになった。

大人になって知ったのは、世の才能あるピアニストたちは七歳よりも若い時に「エリーゼのために」を弾いたし、私の何倍もの時間を練習に費やしていた。

私はたまたま、通っていた教室の中ではまあまあ上手な方、というだけだった。


小学生の同級生の中には、私と同じようにピアノを習っている子が何人かいた。

小学二年生のある日、そのうちの一人が私の家に遊びに来る事があった。

その子は ”ミサキちゃん” という名前で、家が近かった。

お互いにピアノを習っている事は知っていたが、相手の弾くところは見たことが無かった。

当然家にはピアノがあるので、弾こうよ!という流れになった。

まずは私の番で、発表会以外で家族と先生ではない誰かに聞かせるのは少し恥ずかしかったけれど、得意気に「エリーゼのために」を披露した。

何とかミスなく弾き終えると、ミサキちゃんは「私もエリーゼのためにを弾くね!」と言い出した。

私は「うん、交代ね!」と明るく言って席を変わったものの、内心はかなりざわついていた。

そして、ミサキちゃんの演奏が始まった。

鍵盤に指が触れてメロディーが紡ぎ出されたその瞬間の、言葉では言い表せない複雑な感情は、今でもぼんやりだが蘇らせる事が出来る。

気が付くと、祖母も横に来て聴き入っていた。

演奏が終わると、私と祖母は溢れんばかりの拍手をミサキちゃんに送った。

「すっごく上手だね!いつから習っているの?」

その後は、心の中に邪念が渦巻いていた事を悟られまいと言わんばかりに、明るくミサキちゃんに質問した。


ミサキちゃんの弾く「エリーゼのために」は、私の弾くそれとは全く別の曲みたいだった。

私の演奏は、確かに楽譜通りではあった。

けれどミサキちゃんの奏でる音は、メロディーは楽譜通りなのだけれど、曲に表情があって、言ってみれば ”生きているみたい” だった。

私は感動すると同時に、自分はこんな風には弾けない、たぶん世界が違う、幼いながらにそう思った。



その後、ミサキちゃんと遊んでもピアノを弾く事はなく、数年が経った。

私は相変わらず教室には通っていたけれど、小学校の高学年になってくるとピアノに対する熱量もかなり少なくなっていて、練習もサボりがちだった。

そんな中、学校の音楽の授業では時折、合唱をする事があった。

クラスでピアノを弾ける子がいる場合は、その子が伴奏をした。

私もそんな機会には、積極的に伴奏を引き受けた。

どうも歌う事が性に合わなくて、自分は音痴だと思っていたから、伴奏という仕事が出来るのは嬉しかった。

けれど、そんな時はいつも、ミサキちゃんの事が頭をよぎった。

幸いなことに、彼女と同じクラスになる事が無かったので、伴奏で被る事もなかった。

ただ、ミサキちゃんはピアノが上手と言う評判は、簡単に私の耳にも入っていた。



小学校の卒業間近、卒業生合唱で校歌を歌う際の伴奏者を募集します、という発表があった。

立候補者が多ければオーディションをするという事になっていた。

私はドキドキしながらも立候補して、オーディションを受けに行った。

教室に入るとき、何か自分が間違った事をしているような気分になったけれど、扉を開けるとそこには同じピアノ教室に通っている同級生数人がいて、ホッとした。

ミサキちゃんは、そのオーディションは受けに来なかった。

私は何とか選ばれて、校歌の伴奏者になる事が出来た。



卒業式当日、無難に合唱も式も終わり、みな思い思いの挨拶をし合っていた。

とは言っても、ほとんどが同じ市立中学へ進学するはずで、本当の別れがある人なんて少数だった。

そんな中、ミサキちゃんが話しかけに来てくれた。

「伴奏おつかれ!のんちゃん、てっきり同じ中学に行くと思っていたのに、残念・・・。」と言ってきたのだ。

私は「え?同じ(市立の)〇〇中学だよね?」と聞き返すと、ミサキちゃんは私の知らない私立中学校の名前を言って、自分はそこへ進学すると話してくれた。

その中学校は、家から一番近い音楽コースのある学校で、ピアノの道を進むためにそこへ行くという事だった。

ミサキちゃんは、私がよく伴奏もしているし上手な子だと思っていたから、自分と同じ道を進むと勝手に思ってくれていたらしい。

私たちの地元は、失礼ながら学力の高い子どもも多くなく、音楽コースとは言えど所謂 ”私立のお受験” をする子はほとんど居なかった。

それ故に、お受験をする子はギリギリまで周囲にはひた隠しにしていた。

私はピアニストなんて夢は小学二年生のあの時に当に諦めていたし、ピアノの先生も進めてくれなかったから、そういう選択肢がある事すら知らなかった。

ミサキちゃんに再会するのは、それから十五年も後のことになるが、その間ずっと私の心の中に居続ける人となった。



ところ変わって中学校に入学し、私は惰性でピアノを続けていた。

そのくせ、合唱の機会がれば相変わらず伴奏者に立候補していた。

中学校では年一回、合唱コンクールがあって各クラスの担任教師はこぞって力を入れていた。

毎年のクラス替えの際は、各クラスに一人はピアノを弾ける子を割り振っていたらしい。

中学三年生の合唱コンクールの時、私はいつものように伴奏をさせてもらえる事になった。

自然と、他のクラスでは誰が伴奏で、どんな曲を選んだのかという事に興味を持った。

そんな中、他クラスの三年六組には伴奏を立候補する人が居らず困ってる・・・という噂が耳に入った。

大変だなぁ、とは思いつつも自分のクラスの練習が忙しく、それ以上気にする余裕も無いまま当日を迎えた。



合唱コンクール当日、可もなく不可もなく自分のクラスの番が終わった。

特に結果に対して拘りは無かったので、難なく終えられた事で満足だった。

そんな矢先、噂になっていた六組の番になった。

結局誰が伴奏するんだろう・・・ふと、興味が戻ってきて、ステージを凝視した。

ピアノの前には、”ナズキちゃん” という、いつもはギャル系のグループで騒いでいる子が座っていた。

周りから、ナズキちゃんピアノ習ってたらしいね、なんて会話が聞こえてきた。

そんな騒めきの中、伴奏が始まった。

その瞬間、私は小学二年生のときミサキちゃんを目の前に味わった、あの時の衝撃にまた襲われるのを感じた。

初めて聞くナズキちゃんの演奏も、間違いなく ”生きている” メロディーだった。

そして、選曲も「COSMOS」という、中学生の合唱曲の中では伴奏も合唱も難しめな曲だった。

波乱なスタートが六組の結束力を深めたのか、合唱自体も素晴らしく、あっという間に六組は優勝杯をさらっていった。


人生二度目の衝撃を受けて、私は中学校と共にピアノも卒業しようと心に決めた。

最後の記念にと、中学校でも卒業生合唱の伴奏者に立候補した。

その時も立候補者が数人いてオーディションをする事になり、ある日の放課後音楽室に集合がかかった。

小学生の時と同じ、あのドキドキする感覚に襲われたけれど、やっぱりナズキちゃんはそこには居なかった。

卒業式当日、私は無事に大地讃頌を弾き終える事ができ、みんなから労いを受けて、気持ちよく卒業することが出来た。

けれど、心の片隅では、ミサキちゃんとナズキちゃんにジッと見つめられていて、何とも複雑な気持ちだった。


何をそんな気にするのだろう?と思うかもしれない。

けれど、自分より才能があって腕もある同級生を差し置いて伴奏した事が、その時の私にはひどく恥ずかしい事のように思えたのだ。

弾くまでは一生懸命で夢中になるのだけれど、終わってふと振り返ってみると、自分のやった事がひどく滑稽な事のように感じられた。

簡単に、あえて言うならば、単なる ”嫉妬” と ”劣等感” をそのとき味わっていたのだ。


今ではもう、生きた演奏に出会っても当時の気持ちは湧いてこない。

けれど時折、ふとした時に二人の事を思い出す。

本人たちは、こんな何年経っても自分の演奏に心を奪われている人が居たなんて、夢にも思っていないだろう。

昨年、久しぶりに予定されていた小・中学高の同窓会が、コロナ禍を理由に延期になった。

今の状態だと、あと何年後に実施されるか分からないけれど、再会出来たそのときは思い切って「あの時のピアノ、感動したよ!」と声をかけてみようと思っている。


#忘れたくないこと

#ほろ苦い思い出

#エッセイ










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