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「カエシテ」 第43話

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 会社では一か月に一度、平穏な時間がある。陣内がビルの会合に出る日だ。会合には各フロアに入る企業の責任者が出席する決まりとなっている。新宿という土地柄からか、このビルのオーナーは規律に対して異様に厳しい。口が酸っぱくなるほど同じ事を繰り返し、絶対に問題を起こさないように最大限の注意を払っている。万が一、問題を起こした企業には多額の賠償金を請求するとの話だ。この会合は数時間開催されるため、従業員はこの時だけ、肩の力を抜いて仕事に臨んでいる。
「いいね。平子君は。もうここから去れるわけだから」
 当然のことながら、私語も増える。由里が平子に声を掛けた。日頃は無駄口を叩くことなく仕事をこなしている由里だが、この日ばかりは口が軽い。一人いないだけで、職場の空気はガラリと変わっていた。
「えぇ、でもまだ今日一日残っていますからね。安心はできませんよ」
 平子は答えた。ただし、その顔には笑みが浮かんでいる。それもそのはずだ。出勤は実質的にこの日が最後だった。残りは有休を消化する予定だ。と言っても、平子は効率的に有休を消化するタイプの男だ。月に一度は必ず消化している。そのため、口では一丁前のことを言っているが、有給は二日しか残っていない。
「それは俺達からも言えることだよ」
 苦笑いしながら加瀨が会話に入り込んだ。陣内不在時は責任者となっているが、働きやすい職場を目指しているため、空気は和やかだ。気軽に雑談に応じている。
「ちゃんと仕事は片付けて行ってくれよな。もし残っていたら、俺達がとばっちりを受けるんだから。ただでさえ、人がいないことで仕事量が増えて陣内さんは苛立っているからな。そこだけは頼むぞ」
「そうよ。私からもお願いするわ」
 加瀨に続いて由里も懇願する。
「わかっていますよ。俺に出来ることはもう片付けてあるんで大丈夫ですよ。陣内さんに引き継ぎも済んでいますし」
 平子は笑っている。実際、ホームページの更新や来月号の電子版に関しては既に完成している。陣内も多少であれば、プログラム知識を持っているため、引き継ぎに関しても必要はなかった。
「純の実家の件はどうなったの。いつだったかに、携帯の中に画像があるかもしれないって話になったじゃない。そこで平子くんが、聞いてみるって言っていたけど。いくらあの話はもう追わなくなったとはいえ、いつ蒸し返してくるかわからないからね」
 由里が思いだしたように慌てて聞いた。
「あぁ、あの件ですか。あれに関しては、やっぱり携帯は処分してしまったと言うことでした。そもそも純は、携帯のロックの解除は指紋認証にしていたみたいで、中身が見られなかったらしいです。それに加えて、携帯に心霊写真をたくさん保存していた事も知っていたそうで、ご両親からすれば気味悪く思っていたみたいです。だから返却されると落ち着いたところで処分したとのことでした」
「そうだったんだ。なら、本当にもうあの話からは解放されるわけね。良かった。いつ自分に飛び火するかわかったものじゃなかったからね」
 話を聞くと、由里は安堵したようだ。正面では加瀨も納得したように頷いている。ここまで完璧に片付いているのであれば、陣内の苛立ちが飛び火することはなさそうだ。
「えぇ、大丈夫ですよ」
 そう思っている横で平子は相槌を打つ。
「でも、ひどいですよね。あの人は」
 しかし、しばらくすると拗ねたような顔をした。
「俺には、そんな甘ちゃんな考えじゃ、この世界じゃやっていけないぞって熱弁をふるっていたくせに、週刊誌の記者がそばをうろついていただけであっさりあの話を切り捨てるんだから。本当に身勝手な人ですよ。もしかして、世間に顔向けできないような過去があるんですかね。あの人の見た目は完全にチンピラなので、そういう過去があったとしてもおかしくはないですけど」
「それはあるかもね。あの人を寄せ付けない雰囲気は異常だものね」
 由里が激しく同意している。
「となると、きっと気の小さい人間なんでしょうね。俺達の前では虚勢を張っているだけで内心ビクビクしているんでしょうから」
 同意を得られたことで平子の口からは陣内に対する不満が漏れる。
「多分、そうよ。大きいことを言ったり、偉そうな人って大抵、気が小さいから。病気になっただけで、この世界の終わりみたいに落ち込むじゃない。陣内さんもそのタイプじゃない」
 由里が便乗した。
「そうでしょうね」
 平子は手を叩いて笑い声をあげた。
「おい、おい、その辺で止めておいた方がいいぞ。いつ陣内さんが戻ってくるかわからないから。もし聞かれたら、それこそ一大事だぞ」
 話が度を超えてきたため、加瀬が注意した。さすがに看過できなかった。
「そうですね」
 由里が舌を出した。
「こんな話を聞かれたら嫌がらせとか、目の敵にされるかもしれませんからね。この会社じゃパワハラなんて通用しないでしょうし。さすがにそうなったら私も耐えられませんよ」
「そうなったら辞めちゃった方がいいですよ」
 他人事のような顔をして平子はアドバイスを送った。
「おい、おい、いい加減にしろよ」
「わかりました」
 再び注意を受けたことで別の話題を交わしながら、仕事に取り掛かっていく。
 すると、加瀬の読みは正しかった。
 それから十五分もすると陣内が帰ってきた。
 途端に職場の空気は張りつめる。
 三人は一転して、息苦しい空間で仕事をすることとなった。

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