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私の恋人beyond



舞台『私の恋人』が、三年の時を経て、『私の恋人beyond』という題名で再演されている。公開二日目に、観劇することができた。

小田急の下北沢駅を降りて歩き出した。
あれ?こんな風景だったっけ?近未来的な多層建ての公園みたいになっている。かと思うと、いきなり下町風情の街に、電車の踏切が鳴っている。駅は、東京駅の総武線みたいに、大深度の地下駅だったはずだが…

どうやら出口をまちがえたらしい。こっちは、京王線の踏切だ。
道をまちがえたおかげで、若者のファッション、サブカルの街、下北沢
を眺めながら歩いた。

ようやく〝演劇の街〟の中心『本多劇場』の看板が見えてきた。
三年前の風景と、少し変わったのだろうか?
雑居ビルの谷間に漂う蒸し暑い熱気と臭いが、三年前と同じに感じる。それが嬉しかった。

ビヨンドとは「・・・を越えて」か
この三年間に越えたもの…。
そのひとつは、やはりコロナだろう。まだ完全に「越えた」とは言い切れないかもしれないが…

渡辺えりさんも、小日向文世さんも、自らの年齢を意識したようなジョークが連発するが、外見的には変わっていないし、そこも嬉しいところだ。

前置きが長くなるが、私がこの舞台を観劇する主目的は、何を置いてもこの人、のんちゃんである。
のん製作、主演の映画『Ribbon』に表現された、いつかが泣き叫ぶように、たしかに見えないところでは、日常が、生活が、変えられてしまったのかもしれない。

でも…、この舞台の企画には「世の中いろいろあったけどさ、みんな変わってないよ。続きをやろうぜ…」
みたいな安心感や希望をくれる、そんな心意気を感じるのだ。



三年前、この舞台を観劇する前に、上田岳弘氏の原作を読んだ。
読み始めは、非常に難解に感じられ「こりゃ歯が立たないな」と思ったが、読み進めるに連れ、一種独特の世界観に入り込み、一気に読み終えた。

そして、渡辺えりさんの世界観や演出によって、さらに大きく塗り替えられている。この難解なストーリーを、さらに複雑にアレンジするえりさんという人は、相当な哲学者であり、思索家なんだろうなと思う。

美術的にも、顔に纏うベールとか、シュールレアリズムのマグリットのオマージュのようなをアートを感じる。

原作にも舞台にも、深い哲学や思索を感じるが、表現は異なっても、伝えたい想いは、原作と同じところに戻ってくるようだ。

舞台のそれは、高窓の哲学というよりも、カインとアベルのような兄弟の確執、中学生のイジメから、ナチスの残虐行為まで、地を這うような泥々した人間性の本能や本質を、相似形として、解りやすく楽しめる表現で、しかし観ている自分にも、他人事ではないぞ、と突き付けられる。

そして30人の人格を、わずか3人で演じる妙技…、その切り替えの素早さ、コミカルさは、小日向さんがダントツだと感じる。
日常、私たちも無意識に何役も〝演じている〟とゴッフマンは言うが、そんなドラマツルギーの人間劇を、圧縮凝縮した形で魅せてくれる。



私の恋人…

クロマニヨン人の前々世から、まだ会えない私の恋人。
井上ユウスケにとって、それは空想上の恋人だ。

まだ見ぬ〝私の恋人〟をさがし求める井上を演じるのんちゃんは、多くのファンにとっては〝私の恋人〟なのかもしれない。
誰を「恋人だ」と思おうが、想うこと自体は、その人の自由だろう…

井上の前世、ハインリヒ・ケプラーは、ナチスの強制収容所の独房で、まだ見ぬ恋人を想いながら餓死させられる。

ハインリヒ・ケプラーほど強烈な意思の人間にはなれないにしても、こうして『私の恋人beyond』で、のんちゃんを眺めていれば、辛い時代もビヨンドしていけるかもしれない…と思った。

NOTEのフォローワーkojuroさんから、私の記事を「哲学的だ」と褒められたりするが、それはのんちゃんが出演する作品が、観る人に深い思索を求めてくる影響かもしれない。

のん自らの作品『Ribbon』や『おちをつけなんせ』にも、自己というテーゼに立ちはだかる、現実というアンチテーゼをビヨンドする止揚みたいな哲学を感じるのだ。

また、来週も行く予定だが、今度は駅の出口を間違えないようにしよう。