東京ヤクルトスワローズ・ドラフト史「1965年」

1位:森安敏明(関西高) 抽選の末獲得できず
外れ1位:河本和昭(広陵高) 交渉権放棄
2位:山本寛(愛知高) 2登板 0勝0敗 4.1投球回1奪三振 防御率11.25
3位:川上宣緒(鐘紡)
4位:浜口政信(別府鶴見丘高) 11登板 1勝0敗 20.2投球回14奪三振 防御率5.14
5位:高橋恒夫(富士重工業) 交渉権放棄
6位:山田豊彦(大鉄高) 交渉権放棄
7位:柿木孟(田原本農業高) 交渉権放棄
8位:細川昌俊(志度商業高) 交渉権放棄
9位:島谷金二(四国電力) 交渉権放棄
10位:柳田四郎(豊川高) 交渉権放棄
11位:市川幸男(武相高) 交渉権放棄


記念すべき「第1回目」のドラフトは、何もかもが手探りからのスタート。

唐突に始める「ドラフト史」ですが、1回目から順を追って紐解いていくのならドラフト制度導入前後のことを説明するのが筋だと思うので、先にその話を。

今でこそスポーツにおける「秋の風物詩」と言ってもいいプロ野球ドラフト会議ですが、その始まりがこの1965年。それまでのプロ野球は選手を入団させるのに自由競争となっていて、資金力の有無が有力なアマチュア選手をチームに入団させられるかどうかの大きなファクターとなっていました。
1960年代はセ・パ両リーグ間の格差が広がり始める時代で(パ・リーグの人気低迷を決定付けた「黒い霧事件」の発端が1969年)、ドラフト制度導入を提案したのもパ・リーグに所属する西鉄ライオンズの西亦次郎社長からでした。アメリカのNFL(アメリカンフットボール)では1936年から採用されており、1965年には日米でほぼ同時に野球でも採用しています。
ドラフト会議の導入によるメリットは「チーム間の戦力均衡」と「契約金高騰の抑制」にあり、西社長の目論見はまさにパ・リーグ球団にとっては願っていたことだったのでしょう。これからしばらく歴史を紐解いていく東京ヤクルトスワローズにおいても、この恩恵は基本的に受けた側の球団だと思います。

さて、当時のドラフト会議のルールは現在のそれとは大きく異なっています。
1965年ドラフトでは、まず参加する球団は獲得を希望する選手を30名以内、順位を付けて名簿として提出。名簿1位が重複した場合は抽選を行い、それが外れると名簿2位の選手が繰り上がって指名する。そうしてドラフト1位選手が12人確定すると、2位以降は現在でも行われるウェーバ方式(偶数順位)・逆ウェーバー方式(奇数順位)で行われて行きました。
指名した選手の一覧は冒頭に記しました。次項は指名された選手についてを解説します。

第1回ドラフト会議の結果は「厳しい」ものに。逃した魚は大きかった。

ちなみに1965年シーズン、開幕当初「国鉄スワローズ」と名乗っていたチームは5月に「サンケイスワローズ」へと改称。つまり「国鉄スワローズ」としてはドラフトに参加しておらず、現在に連なるスワローズのドラフト史は「サンケイスワローズ」から始まることとなります。

そんな1965年は、前年オフに絶対的エースだった金田正一が巨人へ移籍。その他にも退団・引退した選手が多く、シーズンは44勝91敗5分の勝率.326、優勝した巨人からは45.5ゲーム差を付けられての最下位に沈んでいました。
投手陣は佐藤進の13勝がチーム最多(当時はまだ20勝投手が普通にいた時代)、打線も徳武定之の打率.270、小淵泰輔の17本塁打48打点がチームトップと言う有様。投打ともに戦力補強が迫られた中でドラフト会議を迎えた訳ですが、冒頭の通り11人を指名しながら入団したのは2位・山本寛と4位・浜口政信の2人だけと、初っ端から厳しいスタートを強いられています。
ちなみに1位指名を拒否した河本和昭は、当然のことながら「史上初のドラフト1位指名を拒否した選手」となります。1位指名を拒否したのは、ドラフト制度導入初年度でまだ定着していないこの年でも河本だけでした。

1位指名の森安敏明は東映フライヤーズと重複し、抽選に敗れて入団はならず。その森安は1年目から11勝を挙げる活躍を見せ、1970年シーズン途中に黒い霧事件の当事者として永久追放されるまで東映投手陣の主力として通算58勝を挙げる活躍を見せました。
また9位で指名しながら入団拒否した島谷金二は、この後も東映フライヤーズ、東京オリオンズの指名も拒否し、日本プロ野球歴代2位となる3回の指名拒否を演じます。1968年に中日ドラゴンズへ指名されてようやくプロ入りし、中日と阪急ブレーブスでプロとして14年に渡り活躍。通算1514安打を積み重ねベストナイン2回とダイヤモンドグラブ賞(のちのゴールデングラブ賞)4回を記録、阪急時代の1977年にはチーム初の日本一にも貢献した名選手として知られています。
なおこの島谷については、中日時代にルーキーながらレギュラーを奪った相手がスワローズでもプレーしていた上述の徳武でした。四国電力時代は二塁手だったのですが、もし島谷がスワローズに入団していれば。同じような活躍が出来たとは言えませんが、貴重な戦力として機能していたのではないかと思うと惜しいものです。
…………と言いたいところですが、この当時はまだ「プロ野球」と言う世界は「不安定なもの」でした。現に当時既に人気球団だった巨人でさえ、8人を指名して3人に入団拒否をされています(のちに「ドラフト外入団」が制度として確立するのも、指名・入団を拒否する選手が多かったのが理由のひとつ)。他球団を含めた動向については後述しますが、ドラフト会議の船出はとかく不安定なものでした。

翻ってスワローズに入団した山本・浜口を振り返ると、山本は金田と同じ愛知県出身で大型左腕として期待されていた投手。浜口は八代第一高の豊永隆盛(この年のドラフト1位で中日へ入団)、高鍋高の牧憲二郎(同じくこの年のドラフト1位で南海へ入団。のち阪急でもプレー)とともに九州の三羽烏として期待されていました。
しかし山本は1967年に2試合へ登板したのみで、浜口も同じく1967年にプロ初勝利を挙げたものの通算11試合登板に留まり、2人とも1967年限りで現役を引退します。1965年ドラフトの結果は、お世辞にも「戦力補強」とは言えない結果となってしまいました。

第1回はさながら「ファーストペンギン」の如く勇気を見せ、攻めた球団が成功を収めた結果に。

他球団を見てみると、この年がV9の起点となった読売ジャイアンツは1位に堀内恒夫を指名。堀内はV9巨人の主戦投手として高卒ルーキーながら最優秀防御率を、1972年には26勝を挙げて最多勝を獲得するなど、通算203勝の活躍を見せチームに大きく貢献。後に巨人の監督、さらに参議院議員も1期務めています。
そのV9巨人と日本シリーズで数々の激戦を演じた阪急は、1位に「ミスターブレーブス」長池徳二(徳士)を指名。長池は現在でも後継のオリックス・バファローズを含めての球団記録となる通算338本塁打を放ち、3度の本塁打王に4度のシーズン40本塁打を記録。のちの阪急黄金時代を演出した名選手の1人となりました。

阪神タイガースは2位で藤田平を指名。藤田は高卒ながらルーキーイヤーから一軍で場数を踏み、1981年には首位打者を獲得。通算2064安打を放って阪神の生え抜きでは初めて名球会入りを果たし、のちに監督も務めています。
広島カープは2位で2ケタ勝利2回、通算93勝の白石静生を、4位で広島・阪急で活躍し1978年首位打者の水谷実雄を指名。
東京オリオンズは2位で1969年最優秀防御率・1971年最多勝などの活躍を見せた木樽正明を指名。
近鉄バファローズも2位で鈴木啓示を指名。「草魂」、「ミスターバファローズ」と呼ばれた鈴木は近鉄一筋20年、3度の最多勝を記録し1978年には最優秀防御率のタイトルも獲得。通算78無四球完投は日本記録で、317勝は歴代4位でありドラフト指名された選手では歴代1位。のちには監督を務めるなど、近鉄の球団史を語る上では欠かせない人物です。

その他には史上初の「親子でドラフト指名」を受けたペアの父・佐野真樹夫(広島1位、息子の心はのち1991年ドラフトで中日から6位指名)、中日・西武を渡り歩きコーチとしても活躍した広野功(中日3位)、阪神で活躍した川藤幸三の兄・川藤龍之輔(東京9位)らがプロ入り。
トピックスとしては、プロ経験者唯一のドラフト指名として松井猛(中日10位、入団拒否)、ドラフト順位の史上最下位指名として記録を残している下村栄二(広島18位)らの存在があります。

先述の通りドラフト会議になじみがなかったこともあって、初年度のこの年は12球団全体で132人を指名しながら入団に至ったのは50人に留まっています。これも先述した通り当時はまだプロ野球が安定した世界ではなく、安定志向で社会人でのプレーを望んだケースが多くあり、その他「意中の球団に指名されなかったから」、「球団がそもそも指名した選手と入団交渉をしなかった」ケースもありました。先述の長池はまさにドラフト制度導入の煽りを食っていて、ドラフトがなければ法政大学の先輩・鶴岡一人が監督を務める南海ホークスへ契約金3000万円で入団することが決まっていたそうです。それが意中ではない阪急へ、契約金も3分の1となる1000万円。結局プロ入りはしたものの「ホンマ、えらいもんができよったすよ」とは本人の弁ですが、それもむべなるかな。
それらの紆余曲折を経て現在に至るわけですが、今年で60回を迎えるドラフト会議。1球団に限らず歴史を振り返って見るのも、これまた一興ではないでしょうか。

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