すまぬが、生きるわ。
骨折で入院していた。
テレビも最近はあまり面白くないし、もともとわたしは小さなスマホ画面を見るのがあまり好きではない。
日常の疲労と物憂げさに流されて、存在価値がレンガ化してしまっている本を2、3冊持ってきて貰うように家族へお願いした。
未読のものは本屋のカバーをかけたままなのでそれらをお願いしたのだが、頼まれた方も気が動転していたらしく、カバーの無い、かなり昔に読み終えた古い本を数冊持ってきてくれた。
手に取って、ちょっとギョッとした。
持ってきてくれた人間はあまり本を読まないタイプなので、全く気付いていなかったのだが、その時の自分と似たような年齢で亡くなった作家さんの本ばかりだった。
中島らも、向田邦子。
たまたま大事に至らなかったけど、今回の怪我だって死のハードルをチョン、と越えた可能性もあった。
……っちゅうか、まあ、この世のすべての人がいつどうなるかなんて分からない。
例えば、この文字を打ち込む数秒後でも。
滑らかな表紙を指で撫ぜて俯いていた。
こんな才能のある素敵な愛しい方たちが亡くなっているのに、まだ生き永らえる価値がわたしにあるだろうか?
寿命に意味はないんだな。
でも、自嘲的に苦笑いしつつ、まだ生きたいという願いが小さな蝋燭の火のように灯っているのも感じた。
生死がごっそり混じり合う場、病院などにわざわざ身を置かないと、気づかなかったのかもしれない。
病室の、ながいながい一日がめぐる間、まだしておかなければならないことがいくつも浮かび、物欲しく卑しくメモをとった。
神様に自分なりの反省文を提出することと似ていた。
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